余語翠巌

「こころの時代」で放映されたものより

投稿日:2012年5月24日 更新日:

(前略)
青山:今の一当は、今初めて一度当たることができた。今初めて矢が的に当たることができたのは、過去の百回千回の失敗にめげずに、一度一度を大事に努めることによって、熟して、やっと今一度当たることができたぞ、と。「今の一当は過去の百不当の力なり。百不当一老なり」と。「一当」を「老」と書いているところに意味がありますわね。

日本で「老」というのは、「老醜」とか、あんまりいい言葉に使われませんが、本来は「長老」「大老」「老練」「老師」円熟の意味ですわな。ですから不当一百回千回の失敗にめげずに、一度一度大事にやり続ける。そうすることによって、熟して、今一度当たることができた、というような、時間を掛けて教えに参じ続けることで、自分の物差しを延ばしていくよりしょうがないという、その辺が教えに出会うことができても、後は時間を掛けながら、具体的生活の中で温め続けてさして頂かないといけない。それは今日のお軸を掛けました「梅熟」でもありますわね。

 
金光:「梅が熟する」と書いてありますが、あの軸はどなたの軸でございますか。
 
青山:余語翠巖老師、亡くなりましたけども、私の名古屋の道場の師家(しけ)として二十年ご指導頂きまして、老師との出会いも大変有り難い出会いで、人生出会いは宝と言いますけれども、まず第一歩に沢木興道(さわきこうどう)老師にお目に掛かることができた。16歳で頭を剃った時に、先ずは沢木老師に出会いができて、それから老師が昭和三十八年に安泰寺へ引退された。その年まで私はちょうど大学におりましてね、大学を引き揚げたのが三十八年。それから老師は二年ほどでお亡くなりになりました。

その後、自分の姿は見えませんから、生涯覚めた目で足下を見て下さる人の目を持ち続けたいというので、沢木老師の後、どなたがよかろうか、と思いました時、内山興正老師にその後ずっと付かして頂き、同時に僧堂にお迎えする師家として、余語老師とのお出会いがあって、で、余語翠巖老師は大雄山最乗寺の山主でいらっしゃいましたね。その余語老師に御出会いして25年間でしたが、尼僧堂の堂長として20年お越し頂きました。有り難いご縁でした。

老師におねだりして書いて頂いた一つがこの「梅熟」です。これは道元様の『正法眼蔵』の「行持」の巻ですね。「行持」の巻にある馬祖道一の弟子の大梅法常の話ですね。一人の雲水が、手杖の材料を取りに山へ入って道に迷って、迷ってヒョイと出たところに小さな小屋があって、何年も山を下らずに修行しているらしきお方がいるんですね。「道に迷ってしまったけど、どうやったら里へ帰れるか」と聞きましたら、「随流去」(ずいりゅうこ)と答えられた。流れに随って去れ。まず川を見つければ水はいやでも低く行きますから、その流れに随えば里へ出ますわな。

この「随流去」という言葉も余語老師のお好きな言葉でしたけども、それで里へ出ることができて、馬祖師匠のところへ帰ることができて、「山の中でこんな人に会いまして、聞いたら〝随流去〟と答えられた」と報告するわけです。そうしますと、馬祖が、「それはその昔ここで修行していた大梅法常に違いない。もう一遍お前、そこへ行って、『かつて馬祖は、〝即身即仏〟を説いたが、今は違う。〝非心非仏〟を説く』と言って来い」と。

心がそのまま仏―「即心即仏」をその昔説いた。今は心に非ず仏に非ず「非心非仏」と説く。もう一遍行って来い、と言われまして、この雲水はまた行きまして、それを伝えたんですね。そうしましたら、大梅法常が、「他は〝非心非仏〟にまかす。吾はこれ〝即心即仏〟」と。師匠は何と言おうと、私は〝即心即仏〟だ、と。ここもなかなかですわ。自分の師匠が違ったことを言ったらって、師匠であろうと何であろうと、自分が頂いた安心は動かない。ここが素晴らしいですね。

「他は〝非心非仏〟にまかす」師匠は何であろうと私は〝即心即仏〟だ、とこう答えた。雲水さんは、わからないけども、そのまままた戻って来て報告するわけです。そうすると、馬祖が「梅子熟せり」と。「梅子」というのは、大梅法常のことで、「子」というのは、例えば舎利子とか、「子」という字は愛称であったり、接尾語ですわね。大梅法常の修行が熟しているわい、という意味で、「梅子熟せり」と言われた。

この「梅熟」の二字は、道元禅師はこの大梅法常さまを非常に慕っておられましたから、永平寺の確か中雀門ですか、この「梅熟」の軸が掛かっております。そんなのでこの「熟する」というは、先ほど「百不当一老」の「老」に当たりますわな。

時間を掛けて、例えば鳥が卵を抱くのも時間を掛けなければ熟さん、卵は孵化しない。ただ抱いているだけではなくて、点検をするんだそうですね。黄身の冷たいところはないかと点検しているんだそうですが、というように、一句を頂いて「良い話だった」と、それじゃダメなんで、それを具体的な生活の中でずっと温め続けていく。生活にはいろいろあるに決まっていますが、いろいろあるその中で一句を頂戴したら温め続ける。

参学し続ける。参究し続ける、という時間を掛けないと「老」は来ない、「熟する」は来ない。そういう辺りがこの「一老」とか、「熟する」という意味なんでしょうね。
 
金光:そういうエピソードというのは、禅宗の歴史の中には、いろんな方がそういう体験をされているというのが残っているんでございましょうね。(後略)
(平成24年5月6日NHK教育テレビ「こころの時代」愛知専門尼僧堂堂長・青山俊董の放映回より)

余語翠巌 略歴

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