余語翠巌

自分の凡夫判断、世間そろばんにて、是非をきめることでなくお任せすること

投稿日:2020年6月5日 更新日:

お互に自分達の願いの中味を吟味して見ると、わがままなことが多いものである。ある基教信者の述懐をきいたことがある。その人は関東大震災にあって、非常な苦しみを味わった時に、何故こんな苦しみにあわねばならぬのかと神をうらみに思うたけれども、よくよく考えて見れば、幸不幸、善悪は凡夫心のこちら側で判断することではなく、神の思し召しにまかすことであったと気づいて、目からうろこが落ちたように信心のすがたが定まったと云うのである。

お互いの考えは夫々違っている、寸法がちがっている。山の人と海の人が宿に泊って話をした。山の人はお日様は山から出て山へ入るという。海の人はお日様は海から出て海へ入ると云う。宿の番頭さんが仲裁して、お日様は屋根から出て屋根へ入ると云うたと云う一口話がある。笑われぬ話である。

至極の立場から考えて見ると、苦辛の初代も安楽の三代目も夫々に業縁のすがたであり、どちらを是としどちらを非とすることはない、されば御信心のすがた、信仰のすがたは、順縁の時も逆縁の時も、自分の凡夫判断、世間そろばんにて、是非をきめることでなくお任せすることである。順逆共に大慈悲心のおん催しとうけとめることである。その時、大安心の境に坐することができよう。御安心の極である。個人の力量など浮雲のごときことである。
(昭和五十四年一月)(余語翠巖好夢集「去来のまま」より)

余語翠巌 略歴

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