曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

仏向上事(ぶっこうじょうじ)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

高祖筠州洞山悟本大師は、潭州雲巖山無住大師の親嫡嗣なり。如来より三十八位の祖向上なり、自己より向上三十八位の祖なり。

大師、有時示衆云、体得仏向上事、方有些子語話分(仏向上の事を体得して、方に些子語話の分有り)。
僧便問、如何是語話(如何ならんか是れ語話)。
大師云、語話時闍梨不聞(語話の時、闍梨不聞なり)。
僧曰、和尚還聞否(和尚また聞くや否や)。
大師云、待我不語話時即聞(我が不語話の時を待つて、即ち聞くべし)。

いまいふところの仏向上事の道、大師その本祖なり。自余の仏祖は、大師の道を参学しきたり、仏向上事を体得するなり。まさにしるべし、仏向上事は、在因にあらず、果満にあらず。しかあれども、語話時の不聞を体得し参徹することあるなり。

仏向上にいたらざれば仏向上を体得することなし、語話にあらざれば仏向上事を体得せず。相顕にあらず、相隠にあらず。相与にあらず、相奪にあらず。このゆゑに、語話現成のとき、これ仏向上事なり。仏向上事現成のとき、闍梨不聞なり。闍梨不聞といふは、仏向上事自不聞なり。すでに語話時闍梨不聞なり。しるべし、語話それ聞に染汚せず、不聞に染汚せず。このゆゑに聞不聞に不相干なり。

不聞裏蔵闍梨なり、語話裡蔵闍梨なりとも、逢人不逢人、恁麼不恁麼なり。闍梨語話時、すなはち闍梨不聞なり。その不聞たらくの宗旨は、舌骨に罣礙せられて不聞なり、耳裡に罣礙せられて不聞なり。眼睛に照穿せられて不聞なり、身心に塞却せられて不聞なり。しかあるゆゑに不聞なり。これらを拈じてさらに語話とすべからず。不聞すなはち語話なるにあらず、語話時不聞なるのみなり。高祖道の語話時闍梨不聞は、語話の道頭道尾は、如藤倚藤なりとも、語話纏語話なるべし、語話に罣礙せらる。

僧いはく、和尚還聞否。
いはゆるは、和尚を挙して聞語話と擬するにあらず、挙聞さらに和尚にあらず、語話にあらざるがゆゑに。しかあれども、いま僧の疑議するところは、語話時に即聞を参学すべしやいなやと咨参するなり。たとへば、語話すなはち語話なりやと聞取せんと擬し、還聞これ還聞なりやと聞取せんと擬するなり。しかもかくのごとくいふとも、なんぢが舌頭にあらず。

洞山高祖道の待我不語話時即聞、あきらかに参究すべし。いはゆる正当語話のとき、さらに即聞あらず。即聞の現成は、不語話のときなるべし。いたづらに不語話のときをさしおきて、不語話をまつにはあらざるなり。

即聞のとき、語話を傍観とするにあらず、真箇に傍観なるがゆゑに。聞のとき、語話さりて一辺の那裡に存取せるにあらず、語話のとき、即聞したしく語話の眼睛裏に蔵身して霹靂するにあらず。しかあればすなはち、たとひ闍梨にても、語話時は不聞なり。

たとひ我にても、不語話時即聞なる、これ方有些子語話分なり、これ体得仏向上事なり。たとへば、語話時即聞を体得するなり。このゆゑに、待我不語話時即聞なり。しかありといへども、仏向上事は、七仏已前事にあらず、七仏向上事なり。

高祖悟本大師示衆云、須知有仏向上人(須らく仏向上人有ることを知るべし)。
時有僧問、如何是仏向上人(如何ならんか是れ仏向上人)。
大師云、非仏。
雲門云、名不得、状不得、所以言非(名づくること得ず、状どること得ず、所以に非と言ふ)。
保福云、仏非。
法眼云、方便呼為仏(方便に呼んで仏と為す)。

おほよそ仏祖の向上に仏祖なるは、高祖洞山なり。そのゆゑは、余外の仏面祖面おほしといへども、いまだ仏向上の道は夢也未見なり。徳山臨済等には為説すとも承当すべからず。巖頭雪峰等は粉碎其身すとも喫拳すべからず。高祖道の体得仏向上事、方有些子語話分、および須知有仏向上人等は、ただ一二三四五の三阿僧祇、百大劫の修証のみにては、証究すべからず。まさに玄路の参学あるもの、その分あるべし。

すべからく仏向上人ありとしるべし。いはゆるは、弄精魂の活計なり。しかありといへども、古仏を挙してしり、拳頭を挙起してしる。すでに恁麼見得するがごときは、有仏向上人をしり、無仏向上人をしる。

而今の示衆は仏向上人となるべしとにあらず、仏向上人と相見すべしとにあらず。ただしばらく仏向上人ありとしるべしとなり。この関捩子を使得するがごときは、まさに有仏向上人を不知するなり、無仏向上人を不知するなり。

その仏向上人、これ非仏なり。いかならんか非仏と疑著せられんとき、思量すべし、仏より以前なるゆゑに非仏といはず、仏よりのちなるゆゑに非仏といはず、仏をこゆるゆゑに非仏なるにあらず。ただひとへに仏向上なるゆゑに非仏なり。その非仏といふは、脱落仏面目なるゆゑにいふ、落仏身心なるゆゑにいふ。

東京浄因枯木禅師[嗣芙蓉、諱法成]、示衆云、知有仏祖向上事、方有説話分。諸禅徳、且道、那箇是仏祖向上事。有箇人家児子、六根不具、七識不全、是大闡提、無仏種性。逢仏殺仏、逢祖殺祖。天堂收不得、地獄摂無門。大衆還識此人麼。良久曰、対面不仙陀、睡多饒寐語(東京浄因枯木禅師[芙蓉に嗣す、諱は法成]、示衆に云く、仏祖向上の事有ることを知らば、方に説話の分有り。諸禅徳、且道すべし、那箇か是れ仏向上の事なる。箇の人家の児子有り、六根不具、七識不全、是れ大闡提、無仏種性なり。仏に逢ひては仏を殺し、祖に逢ひては祖を殺す。天堂も收むること得ず、地獄も摂するに門無し。大衆還た此の人を識るや。良久して曰く、対面仙陀にあらず、睡多くして寐語饒なり)。

いはゆる六根不具といふは、眼睛被人換却木槵子了也、鼻孔被人換却竹筒了也、髑髏被人借作屎杓了也、作麼生是換却底道理(眼睛人に木槵子と換却せられ了りぬ、鼻孔人に竹筒と換却せられ了りぬ、髑髏人に借りて屎杓と作され了りぬ。作麼生ならんか是れ換却底の道理)。

このゆゑに六根不具なり。不具六根なるがゆゑに爐鞴裏を透過して金仏となれり、大海裏を透過して泥仏となれり、火焔裡を透過して木仏となれり。

七識不全といふは、破木杓なり。殺仏すといへども逢仏す。逢仏せるゆゑに殺仏す。天堂にいらんと擬すれば天堂すなはち崩壊す、地獄にむかへば地獄たちまちに破裂す。このゆゑに、対面すれば破顔す、さらに仙陀なし。睡多なるにもなほ寐語おほし。しるべし、この道理は、挙山匝地両知己、玉石全身百雑碎なり。枯木禅師の示衆、しづかに参究功夫すべし、卒爾にすることなかれ。

雲居山弘覚大師、参高祖洞山。山問、闍梨、名什麼(雲居山弘覚大師、高祖洞山に参ず。山問ふ、闍梨、名は什麼ぞ)。
雲居曰、道膺。
高祖又問、向上更道(向上更に道ふべし)。
雲居曰、向上道即不名道膺(向上に道はば、即ち道膺と名づけず)。
洞山道、吾在雲巖時祗対無異也(吾れ雲巖に在りし時祗対せしに異なること無し)。

いま師資の道、かならず審細にすべし。いはゆる向上不名道膺は、道膺の向上なり。適来の道膺に向上の不名道膺あることを参学すべし。向上不名道膺の道理現成するよりこのかた、真箇道膺なり。

しかあれども、向上にも道膺なるべしといふことなかれ。たとひ高祖道の向上更道をきかんとき、領話を呈するに向上更名道膺と道著すとも、すなはち向上道なるべし。なにとしてかしかいふ。いはく、道膺たちまちに頂に跳入して蔵身するなり。蔵身すといへども露影なり。

曹山本寂禅師、参高祖洞山。山問、闍梨、名什麼(曹山本寂禅師、高祖洞山に参ず。山問ふ、闍梨、名は什麼ぞ)。
曹山云、本寂。
高祖云、向上更道(向上更に道ふべし)。
曹山云、不道(道はじ)。
高祖云、為甚麼不道(甚麼と為てか道はざる)。
師云、不名本寂(本寂と名づけず)。
高祖然之(高祖然之す)。

いはく、向上に道なきにあらず、これ不道なり。為甚麼不道、いはゆる不名本寂なり。しかあれば、向上の道は不道なり、向上の不道は不名なり。不名の本寂は向上の道なり。このゆゑに、本寂不名なり。しかあれば、非本寂あり、脱落の不名あり、脱落の本寂あり。

盤山宝積禅師云、向上一路、千聖不伝。
いはくの向上一路は、ひとり盤山の道なり。向上事といはず、向上人といはず、向上一路といふなり。その宗旨は、千聖競頭して出来すといへども、向上一路は不伝なり。不伝といふは、千聖は不伝の分を保護するなり。かくのごとくも学すべし。さらに又いふべきところあり、いはゆる千聖千賢はなきにあらず、たとひ賢聖なりとも、向上一路は賢聖の境界にあらずと。

智門山光祚禅師、因僧問、如何是仏向上事(智門山光祚禅師、因みに僧問ふ、如何ならんか是れ仏向上事)。
師云、挂杖頭上挑日月(挂杖頭上日月を挑ぐ)。
いはく、挂杖の日月に罣礙せらるる、これ仏向上事なり。日月の罜杖を参学するとき、尽乾坤くらし。これ仏向上事なり。日月是挂杖とにはあらず、挂杖頭上とは、全挂杖上なり。

石頭無際大師の会に、天皇寺の道悟禅師とふ、如何是仏法大意(如何ならんか是れ仏法大意)。
師云、不得不知。
道悟云、向上更有転処也無(向上更に転処有りや無や)。
師云、長空不礙白雲飛(長空白雲の飛ぶを罜礙へず)。

いはく、石頭は曹谿の二世なり。天皇寺の道悟和尚は薬山の師弟なり。あるときとふ、いかならんか仏法大意。この問は、初心晩学の所堪にあらざるなり。大意をきかば、大意を会取しつべき時節にいふなり。

石頭いはく、不得不知。しるべし、仏法は初一念にも大意あり、究竟位にも大意あり。その大意は不得なり。発心修行取証はなきにあらず、不得なり。その大意は不知なり。修証は無にあらず、修証は有にあらず、不知なり、不得なり。またその大意は、不得不知なり。聖諦修証なきにあらず、不得不知なり。聖諦修証あるにあらず、不得不知なり。

道悟いはく、向上更有転処也無。いはゆるは、転処もし現成することあらば、向上現成す。転処といふは方便なり、方便といふは諸仏なり、諸祖なり。これを道取するに、更有なるべし。たとひ更有なりとも、更無をもらすべきにあらず、道取あるべし。

長空不礙白雲飛は、石頭の道なり。長空さらに長空を不礙なり。長空これ長空飛を不礙なりといへども、さらに白雲みづから白雲を不礙なり。白雲飛不礙なり、白雲飛さらに長空飛を罜礙せず。他に不礙なるは自にも不礙なり、面々の不礙を要するにはあらず、各々の不礙を存するにあらず。このゆゑに不礙なり。長空不礙白雲飛の性相を挙拈するなり。

正当恁麼時、この参学眼を揚眉して、仏来をも覷見し、祖来をも相見す。自来をも相見し、他来をも相見す。これを問一答十の道理とせり。いまいふ問一答十は、問一もその人なるべし、答十もその人なるべし。

黄檗云、夫出家人、須知有従上来事分。且如四祖下牛頭法融大師、横説豎説、猶未知向上関捩子。有此眼脳、方弁得邪正宗党(黄檗云く、夫れ出家人は、須らく従上来事の分有ることを知るべし。且く四祖下の牛頭法融大師の如きは、横説豎説すれども、猶ほ未だ向上の関捩子を知らず。此の眼脳有つて、方に邪正の宗党を弁得すべし)。

黄檗恁麼道の従上来事は、従上仏々祖々、正伝しきたる事なり。これを正法眼蔵涅槃妙心といふ。自己にありといふとも須知なるべし、自己にありといへども猶未知なり。仏々正伝せざるは夢也未見なり。黄檗は百丈の法子として百丈よりもすぐれ、馬祖の法孫として馬祖よりもすぐれたり。

おほよそ祖宗三四世のあひだ、黄檗に斉肩なるなし。ひとり黄檗のみありて牛頭の両角なきことをあきらめたり。自余の仏祖、いまだしらざるなり。

牛頭山の法融禅師は、四祖下の尊宿なり。横説豎説、まことに経師論師に比するには、西天東地のあひだ、不為不足なりといへども、うらむらくはいまだ向上の関捩子をしらざることを、向上の関捩子を道取せざることを。

もし従上来の関捩子をしらざらんは、いかでか仏法の邪正を弁会することあらん。ただこれ学言語の漢なるのみなり。しかあれば、向上の関捩子をしること、向上の関捩子を修行すること、向上の関捩子を証すること、庸流のおよぶところにあらざるなり。真箇の功夫あるところには、かならず現成するなり。

いはゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。衆生の仏をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見仏もし衆生の見仏とひとしきは、見仏にあらず。見仏もし衆生の見仏のごとくなるは、見仏錯なり。いはんや仏向上事ならんや。

しるべし、黄檗道の向上事は、いまの杜撰のともがら、領覽におよばざらん。ただまさに法道もし法融におよばざるあり、法道おのづから法融にひとしきありとも、法融に法兄弟なるべし。

いかでか向上の関捩子をしらん。自余の十聖三賢等、いかにも向上の関捩子をしらざるなり。いはんや向上の関捩子を開閉せんや。この宗旨は、参学の眼目なり。もし向上の関捩子をしるを、仏向上人とするなり、仏向上事を体得せるなり。

正法眼蔵仏向上事第二十六

爾時仁治三年壬寅三月二十三日在観音導利興聖宝林寺示衆
正元元年己未夏安居日以未再治御草本在永平寺書写之 懐弉

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