曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

仏教(ぶっきょう)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

諸仏の道現成、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆゑに、教の教のために正伝するなり。これ転法輪なり。この法輪の眼睛裏に、諸仏祖を現成せしめ、諸仏祖を般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり。尽界の出現あり、尽界の涅槃あり。一須臾の出現あり、多劫海の出現あり。

しかあれども、一塵一須臾の出現、さらに不具足の功徳なし。尽界多劫海の出現、さらに補虧闕の経営にあらず。このゆゑに朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたりといはず。もし一日は功徳すくなしといはば、人間の八十年ひさしきにあらず。

人間の八十年をもて十劫二十劫に比せんとき、一日と八十年とのごとくならん。此仏彼仏の功徳、わきまへがたからん。長劫寿量の所有の功徳と、八十年の功徳とを挙して比量せんとき、疑著するにもおよばざらん。

このゆゑに、仏教はすなはち教仏なり、仏祖究尽の功徳なり。諸仏は高広にして、法教は狹少なるにあらず。まさにしるべし、仏大なるは教大なり、仏小なるは小なり。このゆゑにしるべし、仏および教は、大小の量にあらず、善悪無記等の性にあらず、自教々他のためにあらず。

ある漢いはく、釈迦老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶迦葉に正伝す、嫡々相承しきたれり。しかあれば、教は赴機の戲論なり、心は理性の真実なり。この正伝せる一心を、教外別伝といふ。三乗十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆゑに、直指人心、見性成仏なりといふ。

この道取、いまだ仏法の家業にあらず。出身の活路なし、通身の威儀あらず。かくのごとくの漢、たとひ数百千年のさきに先達と称ずとも、恁麼の説話あらば、仏法仏道はあきらめず、通ぜざりけるとしるべし。ゆゑはいかん、仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かつて仏法をきかざるによりてなり。

いま諸仏といふ本末、いかなるとしらず。去来の辺際すべて学せざるは、仏弟子と称ずるにたらず。ただ一心を正伝して、仏教を正伝せずといふは、仏法をしらざるなり。仏教の一心をしらず、一心の仏教をきかず。一心のほかに仏教ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。仏教のほかに一心ありといふ、なんぢが仏教いまだ仏教ならざらん。たとひ教外別伝の謬説を相伝すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。

仏正法眼蔵を単伝する仏祖、いかでか仏教を単伝せざらん。いはんや釈迦老漢、なにとしてか仏家の家業にあるべからざらん教法を施設することあらん。釈迦老漢すでに単伝の教法をあらしめん、いづれの仏祖かなからしめん。このゆゑに、上乗一心といふは、三乗十二分教これなり、大蔵小蔵これなり。

しるべし、仏心といふは、仏の眼睛なり、破木杓なり、諸法なり、三界なるがゆゑに、山海国土、日月星辰なり。仏教といふは、万像森羅なり。外といふは、這裏なり、這裏来なり。正伝は、自己より自己に正伝するがゆゑに、正伝のなかに自己あるなり。一心より一心に正伝するなり、正伝に一心あるべし。上乗一心は、土石砂礫なり、土石砂礫は一心なるがゆゑに、土石砂礫は土石砂礫なり。もし上乗一心の正伝といはば、かくのごとくあるべし。

しかあれども、教外別伝を道取する漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに、教外別伝の謬説を信じて、仏教をあやまることなかれ。もしなんぢがいふがごとくならば、教をば心外別伝といふべきか。もし心外別伝といはば、一句半偈つたはるべからざるなり。もし心外別伝といはずは、教外別伝といふべからざるなり。

摩訶迦葉すでに釈尊の嫡子として法蔵の教主たり。正法眼蔵を祖々正伝して仏道の住持なり。しかありとも、仏教は正伝すべからずといふは、学道の偏局なるべし。しるべし、一句を正伝すれば、一法の正伝せらるるなり。一句を正伝すれば、山伝水伝あり。不能離却這裡(這裏を離却すること能はず)なり。

釈尊の正法眼蔵無上菩提は、ただ摩訶迦葉に正伝せしなり。余子に正伝せず、正伝はかならず摩訶迦葉なり。このゆゑに、古今に仏法の真実を学する箇箇、ともにみな従来の教学を決擇するには、かならず仏祖に参究するなり。決を余輩にとぶらはず。

もし仏祖の正決をえざるは、いまだ正決にあらず。依教の正不を決せんとおもはんは、仏祖に決すべきなり。そのゆゑは、尽法輪の本主は仏祖なるがゆゑに。道有道無、道空道色(有と道ひ無と道ひ、空と道ひ色と道ふ)、ただ仏祖のみこれをあきらめ、祖々正伝しきたりて、古仏今仏なり。

巴陵因僧問、祖意教意、是同是別(是れ同か是れ別か)。
師云、鷄寒上樹、鴨寒入水(鷄寒うして樹に上り、鴨寒うして水に入る)。

この道取を参学して、仏道の祖宗を相見し、仏道の教法を見聞すべきなり。いま祖意教意と問取するは、祖意は祖意と是同是別と問取するなり。いま鷄寒上樹、鴨寒入水といふは、同別を道取すといへども、同別を見取するともがらの見聞に一任する同別にあらざるべし。しかあればすなはち、同別の論にあらざるがゆゑに、同別と道取しつべきなり。このゆゑに、同別と問取すべからずといふがごとし。

玄沙因僧問、三乗十二分教即不要、如何是祖師西来意(三乗十二分教は即ち不要なり、如何ならんか是れ祖師西来意)。
師云、三乗十二分教總不要(三乗十二分教總に不要なり)。

いはゆる僧問の三乗十二分教即不要、如何是祖師西来意といふ、よのつねにおもふがごとく、三乗十二分教は条々の岐路なり。そのほか祖師西来意あるべしと問するなり。三乗十二分教これ祖師西来意なりと認ずるにあらず。いはんや八万四千法門蘊すなはち祖師西来意としらんや。しばらく参究すべし、三乗十二分教、なにとしてか即不要なる。もし要せんときは、いかなる規矩かある。三乗十二分教を不要なるところに、祖師西来意の参学を現成するか。いたづらにこの問の出現するにあらざらん。

玄沙いはく、三乗十二分教總不要。
この道取は、法輪なり。この法輪の転ずるところ、仏教の仏教に処在することを参究すべきなり。その宗旨は、三乗十二分教は仏祖の法輪なり、有仏祖の時処にも転ず、無仏祖の時処にも転ず。祖前祖後、おなじく転ずるなり。さらに仏祖を転ずる功徳あり。祖師西来意の正当恁麼時は、この法輪を總不要なり。總不要といふは、もちゐざるにあらず、やぶるるにあらず。この法輪、このとき、總不要輪の転ずるのみなり。三乗十二分教なしといはず、總不要の時節を覷見すべきなり。總不要なるがゆゑに三乗十二分教なり。三乗十二分教なるがゆゑに三乗十二分教にあらず。このゆゑに、三乗十二分教、總不要と道取するなり。その三乗十二分教、そこばくあるなかの一隅をあぐるには、すなはちこれあり。

三乗

一者声聞乗
四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦、集諦、滅諦、道諦なり。これをきき、これを修行するに、生老病死を度脱し、般涅槃を究竟す。この四諦を修行するに、苦集は俗なり、滅道は第一義なりといふは、論師の見解なり。もし仏法によりて修行するがごときは、四諦ともに唯仏与仏なり。四諦ともに法住法位なり。四諦ともに実相なり、四諦ともに仏性なり。このゆゑに、さらに無性無作等の論におよばず、四諦ともに總不要なるゆゑに。

二者縁覚乗
十二因縁によりて般涅槃す。十二因縁といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色、五者六入、六者触、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死。

この十二因縁を修行するに、過去現在未来に因縁せしめて、能観所観を論ずといへども、一々の因縁を挙して参究するに、すなはち總不要輪転なり、總不要因縁なり。

しるべし、無明これ一心なれば、行識等も一心なり。無明これ滅なれば、行識等も滅なり。無明これ涅槃なれば、行識等も涅槃なり。生も滅なるがゆゑに、恁麼いふなり。無明も道著の一句なり、識名色等もまたかくのごとし。しるべし、無明行等は、吾有箇斧子、与汝住山(吾れに箇の斧子有り、汝と与に住山せん)なり。無明行識等は、発時蒙和尚許斧子、便請取(発時和尚に斧子を許すことを蒙れり、便ち請取せん)なり。

三者菩薩乗
六波羅蜜の教行証によりて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す。その成就といふは、造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあらず、久成にあらず、本行にあらず、無為にあらず。ただ成就阿耨多羅三藐三菩提なり。

六波羅蜜といふは、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅那波羅蜜、般若波羅蜜なり。これはともに無上菩提なり。無生無作の論にあらず。かならずしも檀をはじめとし般若ををはりとせず。

経云、利根菩薩、般若為初、檀為終。鈍根菩薩、檀為初、般若為終(利根の菩薩は、般若を初めとし、檀を終りとす。鈍根の菩薩は、檀を初めとし、般若を終りとす)。

しかあれども、羼提もはじめなるべし、禅那もはじめなるべし。三十六波羅蜜の現成あるべし。籮籠より籮籠をうるなり。

波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古来の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしともおふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず徧界現成の力量を具足せるがゆゑに。

十二分教
一者素咀纜 此云契経
二者祇夜 此云重頌
三者和伽羅那 此云授記
四者伽陀 此云諷誦
五者憂陀那 此云無問自説
六者尼陀那 此云因縁
七者波陀那 此云譬喩
八者伊帝目多伽 此云本事
九者闍陀伽 此云本生
十者毘仏略 此云方広
十一者阿浮陀達磨 此云未曽有
十二者優婆提舍 此云論議

如来即為直説陰界入等假実之法、是名修多羅。
或四五六七八九言偈、重頌世界陰入等事、是名祇夜。
或直記衆生未来事、乃至記鴿雀成仏等、是名和伽羅那。
或孤起偈、記世界陰入等事、是名伽陀。
或無人問、自説世界事、是名優陀那。
或約世界不善事、而結禁戒、是名尼陀那。
或以譬喩説世界事、是名阿波陀那。
或説本昔世界事、是名伊帝目多伽。
或説本昔受生事、是名闍陀伽。
或説世界広大事、是名毘仏略。
或説世界未曽有事、是名阿浮達摩。
或問難世界事、是名優婆提舍。
此是世界悉檀、為絓衆生故、起十二部経。
(如来即ち為に直に陰界入等の假実の法を説きたまふ、是れを修多羅と名づく。
或いは四、五、六、七、八、九言の偈をもて、重ねて世界陰入等の事を頌す、是れを祇夜と名づく。
或いは直に衆生未来の事を記し、乃至鴿雀の成仏等を記す、是れを和伽羅那と名づく。
或いは孤起偈をもて、世界陰入等の事を記す、是れを伽陀と名づく。
或いは人問ふこと無く、自ら世界の事を説く、是れを優陀那と名づく。
或いは世界不善の事に約して、禁戒を結す、是れを尼陀那と名づく。
或いは譬喩を以て、世界の事を説く、是れを阿波陀那と名づく。
或いは本昔世界の事を説く、是れを伊帝目多伽と名づく。
或いは本昔受生の事を説く、是れを闍陀伽と名づく。
或いは世界広大の事を説く、是れを毘仏略と名づく。
或いは世界の未曽有の事を説く、是れを阿浮陀達磨と名づく。
或いは世界の事を問難す、是れを優婆提舍と名づく。
此れは是れ世界悉檀なり、衆生を絓ばしめんが為の故に、十二部経を起す。)

十二部経の名、きくことまれなり。仏法のよのなかにひろまれるときこれをきく、仏法すでに滅するときはきかず。仏法いまだひろまらざるとき、またきかず。ひさしく善根をうゑて仏をみたてまつるべきもの、これをきく。すでにきくものは、ひさしからずして阿耨多羅三藐三菩提をうべきなり。

この十二、おのおの経と称ず。十二分教ともいひ、十二部経ともいふなり。十二分教おのおの十二分教を具足せるゆゑに、一百四十四分教なり。十二分教おのおの十二分教を兼含せるゆゑに、ただ一分教なり。しかあれども、億前億後の数量にあらず。これみな仏祖の眼睛なり、仏祖の骨髓なり、仏祖の家業なり、仏祖の光明なり、仏祖の荘厳なり、仏祖の国土なり。十二分教をみるは仏祖をみるなり、仏祖を道取するは十二分教を道取するなり。

しかあればすなはち、青原の垂一足、すなはち三乗十二分教なり。南嶽の説似一物即不中、すなはち三乗十二分教なり。いま玄沙の道取する總不要の意趣、それかくのごとし。この宗旨挙拈するときは、ただ仏祖のみなり。さらに半人なし、一物なし、一事未起なり。正当恁麼時、如何。いふべし總不要。

あるいは九部といふあり。九分教といふべきなり。
九部
一者修多羅
二者伽陀
三者本事
四者本生
五者未曽有
六者因縁
七者譬喩
八者祇夜
九者優婆提舍

この九部、おのおの九部を具足するがゆゑに、八十一部なり。九部おのおの一部を具足するゆゑに九部なり。帰一部の功徳あらずは、九部なるべからず。帰一部の功徳あるがゆゑに、一部帰なり。このゆゑに八十一部なり。此部なり、我部なり、払子部なり、挂杖部なり、正法眼蔵部なり。

釈迦牟尼仏言、我此九部法、隨順衆生説。入大乗為本、以故説是経(我が此の九部の法、衆生に隨順して説く。大乗に入らんにこれ為本なり、故を以て是経を説く)。

しるべし、我此は如来なり、面目身心あらはれきたる。この我此すでに九部法なり、九部法すなはち我此なるべし。いまの一句一偈は九部法なり。我此なるがゆゑに隨順衆生説なり。

しかあればすなはち、一切衆生の生従這裏生、すなはち説是経なり。死従這裏死は、すなはち説是経なり。乃至造次動容、すなはち説是経なり。化一切衆生、皆令入仏道、すなはち説是経なり。

この衆生は、我此九部法の隨順なり。この隨順は、隨他去なり、隨自去なり、隨衆去なり、隨生去なり、隨我去なり、隨此去なり。その衆生、かならず我此なるがゆゑに、九部法の条々なり。

入大乗為本といふは、証大乗といひ、行大乗といひ、聞大乗といひ、説大乗といふ。しかあれば、衆生は天然として得道せりといふにあらず、その一端なり。入は本なり、本は頭正尾正なり。ほとけ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。火焔ほとけをとき、法をとく。ほとけ火焔をとき、法火焔をとく。

是経すでに説故の良以あり、故説の良以あり。是経とかざらんと擬するに不可なり。このゆゑに以故説是経といふ。故説は亙天なり、亙天は故説なり。此仏彼仏ともに是経と一称じ、自界他界ともに是経と故説す。このゆゑに説是経なり、是経これ仏教なり。しるべし、恒沙の仏教は竹箆払子なり。仏教の恒沙は挂杖拳頭なり。
おほよそしるべし、三乗十二分教等は、仏祖の眼睛なり。これを開眼せざらんもの、いかでか仏祖の児孫ならん。これを拈来せざらんもの、いかでか仏祖の正眼を単伝せん。正法眼蔵を体達せざるは、七仏祖の法嗣にあらざるなり。

正法眼蔵仏教第三十四

于時仁治三年壬寅十一月七日在雍州興聖精舍示衆

※このページは学問的な正しさを追求するものではありません。より分かりやすくするために漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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