曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

伝衣(でんえ)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

仏々正伝の衣法、まさに震旦に正伝することは、少林の高祖のみなり。高祖はすなはち釈迦牟尼仏より第二十八代の祖師なり。西天二十八代、嫡々あひつたはれ、震旦に六代、まのあたりに正伝す。西天東地都盧三十三代なり。

第三十三代の祖、大鑑禅師、この衣法を黄梅の夜半に祖々正伝し、生前護持しきたる。いまなほ曹谿山宝林寺に安置せり。諸代の帝王あひつぎて内裏に請入して供養す、神物護持せるものなり。

唐朝の中宗肅宗代宗、しきりに帰内供養しき。請するにもおくるにも、勅使をつかはし、詔をたまふ。すなはちこれおもくする儀なり。代宗皇帝、あるとき仏衣を曹谿山におくる詔にいはく、

今遣鎭国大将軍劉崇景、頂戴而送。朕為之国宝。卿可於本寺安置、令僧衆親承宗旨者、厳加守護、勿令遺墜(今、鎭国大将軍劉崇景をして、頂戴して送らしむ。朕、之を国宝とす。卿、本寺に安置し、僧衆の親しく宗旨を承けしものをして厳しく守護を加へ、遺墜せしむることなからしむべし)。

しかあればすなはち、数代の帝者、ともにくにの重宝とせり。まことに無量恒河沙の三千世界を統領せんよりも、この仏衣くににたもてるは、ことにすぐれたる大宝なり。卞璧に準ずべからざるものなり。たとひ伝国璽となるとも、いかでか伝仏の奇宝とならん。

大唐よりこのかた瞻礼せる緇白、かならず信法の大機なり。宿善のたすくるにあらずよりは、いかでかこの身をもちて、まのあたり仏々正伝の仏衣を瞻礼することあらん。信受する皮肉骨髓はよろこぶべし。信受することあたはざらんは、みづからなりといふとも、うらむべし、仏種子にあらざることを。

俗なほいはく、その人の行李をみるは、すなはちその人を見なり。いま諸仏衣を瞻礼せんは、すなはち仏をみたてまつるなり。百千万の塔を起立して、この仏衣に供養すべし。天上海中にも、こころあらんはおもくすべし。人間にも、転輪聖王等のまことをしり、すぐれたるをしらんは、おもくすべきなり。

あはれむべし、よよに国主となれるやから、わがくにに重宝のあるをしらざること。ままに道士の教にまどはされて、仏法を廃せるおほし。その時、袈裟をかけず、円頂に葉巾をいただく。講ずるところは延寿長年の方なり。唐朝にもあり、宋朝にもあり。これらのたぐひは、国主なりといへども国民よりもいやしかるべきなり。

しづかに観察しつべし、わがくにに仏衣とどまりて現在せり。衣仏国土なるべきかとも思惟すべきなり。舍利等よりもすぐれたるべし。舍利は輪王にもあり、師子にもあり、人にもあり、乃至辟支仏等にもあり。しかあれども、輪王には袈裟なし、師子に袈裟なし、人に袈裟なし。ひとり諸仏のみに袈裟あり、ふかく信受すべし。

いまの愚人、おほく舍利はおもくすといへども、袈裟をしらず、護持すべきとしれるものまれなり。これすなはち先来より袈裟のおもきことをきけるものまれなり、仏法正伝いまだきかざるがゆへにしかあるなり。

つらつら釈尊在世をおもひやれば、わづかに二千余年なり。国宝神器のいまにつたはれるも、これよりもすぎてふるくなれるもおほし。この仏法仏衣は、ちかくあらたなり。若田若里に展転せんこと、たとひ五十展転なれりとも、その益これ妙なるべし。かれなほ功徳あらたなり。この仏衣、かれとおなじかるべし。かれは正嫡より正伝せず、これは正嫡より正伝せり。

しるべし、四句偈をきくに得道す、一句子をきくに得道す。四句偈および一句子、なにとしてか恁麼の霊験ある。いはゆる仏法なるによりてなり。いま一頂衣九品衣、まさしく仏法より正伝せり。四句偈よりも劣なるべからず、一句法よりも験なかるべからず。

このゆゑに、二千余年よりこのかた、信行法行の諸機ともに隨仏学者、みな袈裟を護持して身心とせるものなり。諸仏の正法にくらきたぐひは袈裟を崇重せざるなり。いま釈提桓因および阿那跋達多龍王等、ともに在家の天主なりといへども、龍王なりといへども、袈裟を護持せり。

しかあるに、剃頭のたぐひ、仏子と称ずるともがら、袈裟におきては、受持すべきものとしらず。いはんや体色量をしらんや、いはんや着用の法をしらんや。いはんやその威儀、ゆめにもいまだみざるところなり。

袈裟をば、ふるくよりいはく除熱悩服となづく、解脱服となづく。おほよそ功徳はかるべからざるなり。龍鱗の三熱、よく袈裟の功徳より解脱するなり。諸仏成道のとき、かならずこの衣をもちゐるなり。まことに辺地にむまれ末法にあふといへども、相伝あると相伝なきと、たくらぶることあらば、相伝の正嫡なるを信受護持すべし。

いづれの家門にか、わが正伝のごとく、まさしく釈の衣法ともに正伝せる。ひとり仏道のみにあり。この衣法にあはんとき、たれか恭敬供養をゆるくせん。たとひ一日に無量恒河沙の身命をすてて供養すべし。生々世々の値遇頂戴をも発願すべし。

われら仏生国をへだつること十万余里の山海のほかにむまれて、辺方の愚蒙なりといへども、この正法をきき、この袈裟を一日一夜なりといへども受持し、一句一偈なりといへども参究する、これただ一仏二仏を供養せる福徳のみにはあるべからず、無量百千億のほとけを供養奉覲せる福徳なるべし。

たとひ自己なりといへども、たふとぶべし、愛すべし、おもくすべし。祖師伝法の大恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずは、畜類よりも劣なるべし、畜類よりも愚なるべし。

この仏衣の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざる余人は、ゆめにもいまだしらざるなり。いはんや体色量をあきらむるにおよばんや。諸仏のあとをしたふべくは、まさにこれをしたふべし。たとひ百千万代ののちも、この正伝を正伝せん、まさに仏法なるべし。証験これあらたなり。

俗なほいはく、先王の服にあらざれば服せず、先王の法にあらざればおこなはず。仏道もまたしかあるなり。先仏祖の法服にあらざればもちゐるべからず。もし先仏祖の法服にあらざらんほかは、なにを服してか仏道を修行せん、諸仏に奉覲せん。これを服せざらんは、仏会にいたりがたかるべし。

後漢の孝明皇帝、永平年中よりこのかた、西天より東地に来到する僧侶くびすをつぎてたえず、震旦より印度におもむく僧侶、ままにきこゆれども、たれ人にあひて仏法を面授せりけるといはず。ただいたづらに論師および三蔵の学者に習学せる名相のみなり。仏法の正嫡をきかず。

このゆゑに、仏衣正伝すべきといひつたへるにもおよばず、仏衣正伝せりける人にあひあふといはず、伝衣の人を見聞すとかたらず。はかりしりぬ、仏家の閫奥にいらざりけるといふことを。これらのたぐひは、ひとへに衣服とのみ認じて、仏法の尊重なりとしらず、まことにあはれむべし。

仏法蔵相伝の正嫡に、仏衣も相伝相承するなり。法蔵正伝の祖師は仏衣を見聞せざるなきむねは、人中天上あまねくしれるところなり。しかあればすなはち、仏袈裟の体色量を祖々正伝しきたり、正見聞しきたり、仏袈裟の大功徳を正伝し、仏袈裟の身心骨髓を正伝すること、ただまさに正伝の家業のみにあり。もろもろの阿笈摩教の家風には、しらざるところなり。おのおの今案に自立せるは正伝にあらず、正嫡にあらず。

わが大師釈迦牟尼如来、正法眼蔵無上菩提を摩訶迦葉に附授するに、仏衣ともに伝附せりしより、嫡々相承して曹谿山大鑑禅師にいたるに三十三代なり。その体色量を親見親伝せること、家門ひさしくつたはれて、受持いまにあらたなり。

すなはち五宗の高祖、おのおの受持せる、それ正伝なり。あるいは五十余代、あるいは四十余代、おのおの師資みだることなく、先仏祖の法によりて搭し、先仏祖の法によりて製することも、唯仏与仏の相伝し証契して、代々をふるに、おなじくあらたなり。

嫡々相承する仏訓にいはくは、
九条衣 三長一短 或四長一短
十一条衣 三長一短 或四長一短
十三条衣 三長一短 或四長一短
十五条衣 三長一短
十七条衣 三長一短
十九条衣 三長一短
二十一条衣 四長一短
二十三条衣 四長一短
二十五条衣 四長一短
二百五十条衣 四長一短
八万四千条衣 八長一短

いま略して挙するなり。このほか諸般の袈裟あるなり。ともにこれ僧伽梨衣なるべし。

あるいは在家にしても受持し、あるいは出家にしても受持す。受持するといふは、着用するなり。いたづらにたたみもたらんずるにあらざるなり。たとひかみひげをそれども、袈裟を受持せず、袈裟をにくみいとひ、袈裟をおそるるは天魔外道なり。

百丈大智禅師いはく、宿殖の善種なきものは袈裟をいむなり、袈裟をいとふなり、正法をおそれいとふなり。

仏言、若有衆生、入我法中、或犯重罪、或墮邪見、於一念中、敬心尊重僧伽梨衣、諸仏及我、必於三乗授記。此人当得作仏。若天若龍、若人若鬼、若能恭敬此人袈裟少分功徳、即得三乗不退不転。若有鬼神及諸衆生、能得袈裟、乃至四寸、飲食充足。若有衆生、共相違反、欲墮邪見、念袈裟力、依袈裟力、尋生非心、還得清浄。若有人在兵陣、持此袈裟少分、恭敬尊重、当得解脱
(仏言く、若し衆生有つて、我が法の中に入つて、或いは重罪を犯し、或いは邪見に墮ちんに、一念の中に於て、敬心もて僧伽梨衣を尊重せば、諸仏及び我れ、必ず三乗に於て授記せん。此の人当に作仏することを得べし。若しは天、若しは龍、若しは人、若しは鬼、若し能く此の人の袈裟少分の功徳を恭敬せば、即ち三乗の不退不転を得ん。若し鬼神及び諸の衆生有つて、能く袈裟を得ること、乃至四寸もせば、飲食充足せん。若し衆生有つて、共に相違反して、邪見に墮ちんと欲んに、袈裟の力を念じ、袈裟の力に依らば、尋いで非心を生じ、還得清浄ならん。若し人有つて兵陣に在らんに、此の袈裟の少分を持ちて、恭敬尊重せん、当に解脱を得べし)。

しかあればしりぬ、袈裟の功徳、それ無上不可思議なり。これを信受護持するところに、かならず得授記あるべし、得不退あるべし。ただ釈迦牟尼仏のみにあらず、一切諸仏またかくのごとく宣説しましますなり。

しるべし、ただ諸仏の体相、すなはち袈裟なり。
かるがゆゑに、
仏言、当墮悪道者、厭悪僧伽梨(仏言く、当に悪道に墮すべき者は僧伽梨を厭ひ悪む)。

しかあればすなはち、袈裟を見聞せんところに、厭悪の念おこらんには、当墮悪道のわがみなるべしと、悲心を生ずべきなり、慚愧懺悔すべきなり。

いはんや釈迦牟尼仏、はじめて王宮をいでて山にいらんとせし時、樹神ちなみに僧伽梨衣一条を挙して釈迦牟尼仏にまうす、この衣を頂戴すれば、もろもろの魔嬈をまぬがるるなり。

時に釈迦牟尼仏、この衣をうけて、頂戴して十二年をふるに、しばらくもおかずといふ。これ阿含経等の説なり。

あるいはいふ、袈裟はこれ吉祥服なり。これを服用するもの、かならず勝位にいたる。おほよそ世界にこの僧伽梨衣の現前せざる時節なきなり。一時の現前は長劫中事なり。長劫中の事は一時来なり。袈裟を得するは仏標幟を得するなり。このゆゑに、諸仏如来の袈裟を受持せざる、いまだあらず。袈裟を受持せしともがらの作仏せざる、あらざるなり。

搭袈裟法
偏袒右肩は常途の法なり、通両肩搭の法もあり。両端ともに左の臂肩にかさねくるに、前頭を表面にかさね、前頭を裏面にかさね、後頭を表面にかさね、後頭を裏面にかさぬる事、仏威儀の一時あり。この儀は、諸声聞衆の見聞し相伝するところにあらず。諸阿笈摩教の経典に、もらしとくにあらず。

おほよそ仏道に袈裟を搭する威儀は、現前せる伝正法の祖師、かならず受持せるところなり。受持かならずこの祖師に受持すべし。仏祖正伝の袈裟はこれすなはち仏々正伝みだりにあらず。先仏後仏の袈裟なり、古仏新仏の袈裟なり。

道を化し、仏を化す。過去を化し、現在を化し、未来を化するに、過去より現在に祖々正伝し、現在より未来に祖々正伝し、現在より過去に祖々正伝し、過去より過去に祖々正伝し、現在より現在に祖々正伝し、未来より未来に祖々正伝し、未来より現在に祖々正伝し、未来より過去に祖々正伝して、唯仏与仏の正伝なり。

このゆゑに、祖師西来よりこのかた、大唐より大宋にいたる数百歳のあひだ、講経の達者、おのれが業を見徹せるもの、おほく教家律等のともがら、仏法にいるとき、従来舊巣の弊衣なる袈裟を抛却して、仏道正伝の袈裟を正受するなり。かの因縁、すなはち伝、広、続、普燈等の録につらなれり。教律局量の小見を解脱して、仏祖正伝の大道をたふとみし、みな仏祖となれり。いまの人も、むかしの祖師をまなぶべし。

袈裟を受持すべくは正伝の袈裟を正伝すべし、信受すべし。偽作の袈裟を受持すべからず。その正伝の袈裟といふは、いま少林曹谿より正伝せるは、これ如来より嫡々相承すること、一代も虧闕せざるところなり。このゆゑに、道業まさしく禀受し、仏衣したしく手にいれるによりてなり。

仏道は仏道に正伝す、閑人の伝得に一任せざるなり。俗諺にいはく、千聞は一見にしかず、千見は一経にしかず。これをもてかへりみれば、千見万聞たとひありとも、一得にしかず。仏衣正伝せるにしくべからざるなり。正伝あるをうたがふべくは、正伝をゆめにもみざらんは、いよいようたがふべし。仏経を伝聞せんよりは、仏衣正伝せらんはしたしかるべし。千経万得ありとも、一証にしかじ。仏祖は証契なり。教律の凡夫にならふべからず。

おほよそ祖門の袈裟の功徳は、正伝まさしく相承せり、本機まのあたりつたはれり。受持あひ嗣法して、いまにたえず。正受せる人、みなこれ証契伝法の祖師なり。十聖三賢にもすぐる、奉覲恭敬し、礼拝頂戴すべし。

ひとたびこの仏衣正伝の道理、この身心に信受せられん、すなはち値仏の兆なり、学仏祖の道なり。不堪受是法ならん、悲生なるべし。この袈裟をひとたび身体におほはん、決定成菩提の護身符子なりと深肯すべし。一句一偈を信心にそめつれば、長劫の光明にして虧闕せずといふ。一法を身心にそめん、亦復如是なるべし。

かの心念も無所住なり、我有にかかはれずといへども、その功徳すでにしかあり。身体も無所住なりといへどもしかあり。袈裟、無所従来なり、亦無所去なり。我有にあらず、他有にあらずといへども、所持のところに現住し、受持の人に加す。所得功徳もまたかくのごとくなるべし。

作袈裟の作は、凡聖等の作にあらず。その宗旨、十聖三賢の究尽するところにあらず。宿殖の道種なきものは、一生二生乃至無量生を経歴すといへども、袈裟をみず、袈裟をきかず、袈裟をしらず。いかにいはんや受持することあらんや。

ひとたび身体にふるる功徳も、うるものあり、えざるものあるなり。すでにうるはよろこぶべし、いまだえざらんはねがふべし、うべからざらんはかなしむべし。

大千界の内外に、ただ仏祖の門下のみに仏衣つたはれること、人天ともに見聞普知せり。仏衣の様子をあきらむることも、ただ祖門のみなり。余門にはしらず。これをしらざらんものの、自己をうらみざらんは愚人なり。たとひ八万四千の三昧陀羅尼をしれりとも、仏祖の衣法を正伝せず、袈裟の正伝をあきらめざらんは、諸仏の正嫡なるべからず。

他界の衆生は、いくばくかねがふらん、震旦国に正伝せるがごとく仏衣まさしく正伝せんことを。おのれがくにに正伝せざること、はづるおもひあるらん、かなしむこころふかかるらん。

まことに如来世尊の衣法正伝せる法に値遇する、宿殖般若の大功徳種子によるなり。いま末法悪時世は、おのれが正伝なきことをはぢず、正伝をそねむ魔儻おほし。おのれが所有所住は、真実のおのれにあらざるなり。ただ正伝を正伝せん、これ学仏の直道なり。

おほよそしるべし、袈裟はこれ仏身なり、仏心なり。また解脱服と称じ、福田衣と称ず。忍辱衣と称じ、無相衣と称ず。慈悲衣と称じ、如来衣と称じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と称ずるなり。まさにかくのごとく受持すべし。

いま現在大宋国の律学と名称ずるともがら、声聞酒に醉狂するによりて、おのれが家門にしらぬいへを伝来することを慚愧せず、うらみず、覚知せず。西天より伝来せる袈裟、ひさしく漢唐につたはれることをあらためて、小量にしたがふる、これ小見によりてしかあり。

小見のはづべきなり。もしいまなんぢが小量の衣をもちゐるがごときは、仏威儀おほく虧闕することあらん。仏儀を学伝せることのあまねからざるによりて、かくのごとくあり。

如来の身心、ただ祖門に祖々正伝して、かれらが家業に流散せざること、あきらかなり。もし万一も仏儀をしらば、仏衣をやぶるべからず。文なほあきらめず、宗いまだきくべからず。

又、ひとへに麁布を衣財にさだむ、ふかく仏法にそむく。ことに仏衣をやぶれり、仏弟子きるべきにあらず。ゆゑはいかん。布見を挙して袈裟をやぶれり。あはれむべし、小乗声聞の見、まさに迂曲かなしむべきことを。なんぢが布見やぶれてのち仏衣現成すべきなり。

いふところの絹布の用は、一仏二仏祖の道にあらず。諸仏の大法として、糞掃を上品清浄の衣財とせるなり。そのなかに、しばらく十種の糞掃をつらぬるに、絹類あり、布類あり、余帛の類もあり。絹類の糞掃をとるべからざるか、もしかくのごとくならば、仏道に相違す。

絹すでにきらはば、布またきらふべし。絹布きらふべき、そのゆゑなににかある。絹絲は殺生より生ぜるときらふ、おほきにわらふべきなり。布は生物の縁にあらざるか。情非情の情、いまだ凡情の情を解脱せず、いかでか仏袈裟をしらん。

又、化絲の説をきたして乱道することあり。又わらふべし。いづれか化にあらざる。なんぢ化をきくみみを信ずといへども、化をみる目をうたがふ。目に耳なし、耳に目なきがごとし。いまの耳目、いづれのところにかある。

しばらくしるべし、糞掃をひろふなかに、絹ににたるあり、布のごとくなるあらん。これをもちゐんには、絹となづくべからず、布と称ずべからず。まさに糞掃と称ずべし。糞掃なるがゆゑに、糞掃にして絹にあらず、布にあらざるなり。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも有情といふべからず、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃となれるありとも非情といふべからず、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、珠玉をはなれたる道理をしるとき、糞掃衣は現成するなり、糞掃衣にはむまれあふなり。絹布の見いまだ零落せざるは、いまだ糞掃を夢也未見なり。たとひ麁布を袈裟として一生受持すとも、布見をおぼえらんは、仏衣正伝にあらざるなり。

又、数般の袈裟のなかに、布袈裟あり、絹袈裟あり、皮袈裟あり。ともに諸仏のもちゐるところ、仏衣仏功徳なり。正伝せる宗旨あり、いまだ断絶せず。しかあるを、凡情いまだ解脱せざるともがら、仏法をかろくし仏語を信ぜず、凡情に隨他去せんと擬する、附仏法の外道といふつべし、壊正法のたぐひなり。

あるいはいふ、天人のをしへによりて仏衣をあらたむと。しかあらば天仏をねがふべし、又天の流類となれるか。仏弟子は仏法を天人のために宣説すべし、道を天人にとふべからず。あはれむべし、仏法の正伝なきは、かくのごとくなり。

天衆の見と仏子の見と、大小はるかにことなることあれども、天くだりて法を仏弟子にとぶらふ。そのゆゑは、仏見と天見と、はるかにことなるがゆゑなり。律家声聞の小見、すててまなぶことなかれ、小乗なりとしるべし。

仏言、殺父殺母は懺悔しつべし、謗法は懺悔すべからず。
おほよそ小見狐疑の道は仏の本意にあらず。仏法の大道は小乗およぶところなきなり。諸仏の大戒を正伝すること、附法蔵の祖道のほかには、ありとしれるもなし。

むかし黄梅の夜半に、仏の衣法すでに六祖の頂上に正伝す。まことにこれ伝法伝衣の正伝なり、五祖の人をしるによりてなり。四果三賢のやから、および十聖等のたぐひ、教家の論師経師等のたぐひは神秀にさづくべし、六祖に正伝すべからず。しかあれども、仏祖の仏祖を選する、凡情路を超越するがゆゑに、六祖すでに六祖となれるなり。しるべし、仏祖嫡々の知人知己の道理、なほざりに測量すべきところにあらざるなり。

のちにある僧すなはち六祖にとふ、黄梅の夜半の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、帛なりとやせん、畢竟じてこれなにものとかせん。
六祖いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず、これ帛にあらず。
曹谿高祖の道、かくのごとしとしるべし。仏衣は絹にあらず、布にあらず、屈眴にあらざるなり。しかあるを、いたづらに絹と認じ布と認じ、屈眴と認ずるは、謗仏法のたぐひなり。いかにしてか仏袈裟をしらん、いはんや善来得戒の機縁あり、かれらが所得の袈裟、さらに絹布の論にあらざるは仏道の仏訓なり。

また商那和修が衣は、在家の時は俗服なり、出家すれば袈裟となる。この道理、しづかに思量功夫すべし。見聞せざるがごとくして、さしおくべきにあらず。いはんや仏々祖々正伝しきたれる宗旨あり。

文字かぞふるたぐひ、覚知すべからず、測量すべからず。まことに仏道の千変万化、いかでか庸流の境界ならん。三昧あり、陀羅尼あり。算沙のともがら、衣裏の宝珠をみるべからず。

いま仏祖正伝せる袈裟の体色量を、諸仏の袈裟の正本とすべし。その例すでに西天東地、古往今来ひさしきなり。正邪を分別せし人、すでに超証しき。祖道のほかに袈裟を称ずるありとも、いまだ枝葉とゆるす本祖あらず。いかでか善根の種子をきざさん、いはんや果実あらんや。

われらいま曠劫以来いまだあはざる仏法を見聞するのみにあらず、仏衣を見聞し仏衣を学習し、仏衣を受持することをえたり。すなはちこれまさしく仏を見たてまつるなり。仏音声をきく、仏光明をはなつ、仏受用を受用す。仏心を単伝するなり。得仏髓なり。

伝衣

予、在宋のそのかみ、長連床に功夫せしとき、斉肩の隣単をみるに、毎曉の開静のとき、袈裟をささげて頂上に安置し、合掌恭敬して、一偈を黙誦す。ときに予、未曽見のおもひをなし、歓喜みにあまり、感涙ひそかにおちて襟をうるほす。

阿含経を披閲せしとき、頂戴袈裟文をみるといへども、不分曉なり。いまはまのあたりにみる、ちなみにおもはく、あはれむべし、郷土にありしには、をしふる師匠なし、かたる善友にあはず。

いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる、かなしまざらめやは。いまこれを見聞す、宿善よろこぶべし。もしいたづらに本国の諸寺に交肩せば、いかでかまさしく仏衣を著せる僧宝と隣肩なることをえん。悲喜ひとかたにあらず、感涙千万行。

ときにひそかに発願す、いかにしてかはわれ不肖なりといふとも、仏法の正嫡を正伝して、郷土の衆生をあはれむに、仏々祖々正伝の衣法を見聞せしめん。

かのときの正信、ひそかに相資することあらば、心願むなしかるべからず。いま受持袈裟の仏子、かならず日夜に頂戴する勤修をはげむべし、実功徳なるべし。一句一偈を見聞することは、若樹若石の因縁もあるべし。袈裟正伝の功徳は、十方に難遇ならん。

大宋嘉定十七年癸未冬十月中、三韓の僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人いはく智玄、一人は景雲。この二人、ともにしきりに仏経の義をいひ、あまつさへ文学の士なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども比丘法なきこと、小国辺地のゆゑなるべし。我朝の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、かの二僧のごとくならん。

釈迦牟尼仏、すでに十二年中頂戴してさしおきましまさざるなり。その遠孫として、これを学すべし。いたづらに名利のために天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門を、いま諸仏衣頂戴に回向せん、よろこぶべき大慶なり。

ときに仁治元年庚子開冬日記于観音導利興聖宝林寺
入宋伝法沙門 道元

袈裟をつくる衣財、かならず清浄なるをもちゐる。清浄といふは、浄信檀那の供養するところの衣財、あるいは市にて買得するもの、あるいは天衆のおくるところ、あるいは龍神の浄施、あるいは鬼神の浄施、かくのごとくの衣財もちゐる。あるいは国王大臣の浄施、あるいは浄皮、これらもちゐるべし。

また十種の糞掃衣を清浄なりとす。
いはゆる十種糞掃衣
一者牛嚼衣
二者鼠噛衣
三者火焼衣
四者月水衣
五者産婦衣
六者神廟衣
七者筭間衣
八者求願衣
九者王職衣
十者往還衣

この十種を、ことに清浄の衣財とせるなり。世俗には抛捨す、仏道にはもちゐる。世間と仏道と、その家業はかりしるべし。しかあればすなはち、清浄をもとめんときは、この十種をもとむべし。これをえて、浄をしり、不浄を弁肯すべし。心をしり、身を弁肯すべし。この十種をえて、たとひ絹類なりとも、たとひ布類なりとも、その浄不浄を商量すべきなり。

この糞掃衣をもちゐることは、いたづらに弊衣にやつれたらんがためと学するは至愚なるべし。荘厳奇麗ならんがために、仏道に用着しきたれるところなり。仏道にやつれたる衣服とならはんことは、錦繍綾羅、金銀珍珠等の衣服の、不浄よりきたれるを、やつれたるとはいふなり。

おほよそ此土他界の仏道に、清浄奇麗をもちゐるには、この十種それなるべし。これ浄不浄の辺際を超越せるのみにあらず、漏無漏の境界にあらず。色心を論ずることなかれ、得失にかかはれざるなり。ただ正伝受持するはこれ仏祖なり。仏祖たるとき、正伝禀受するがゆゑに、仏祖としてこれを受持するは、身の現不現によらず、心の挙不挙によらず、正伝せられゆくなり。

ただまさにこの日本国には、近来の僧尼、ひさしく袈裟を著せざりつることをかなしむべし、いま受持せんことをよろこぶべし。在家の男女、なほ仏戒を受得せんは、五条七条九条の袈裟を着すべし。いはんや出家人、いかでか著せざらん。

はじめ梵王六天より、淫男淫女奴婢にいたるまでも、仏戒をうくべし、袈裟を著すべしといふ、比丘比丘尼これを著せざらんや。畜生なほ仏戒をうくべし、袈裟をかくべしといふ、仏子なにとしてか仏衣を著せざらん。

しかあれば、仏子とならんは、天上人間、国王百官をとはず、在家出家、奴婢畜生を論ぜず、仏戒を受得し袈裟を正伝すべし。まさに仏位に正入する直道なり。

正法眼蔵第三十二

袈裟浣濯之時、須用衆末香花和水。灑乾之後、畳收安置高処、以香花而供養之。三拝然後、踞跪頂戴、合掌致信、唱此偈(袈裟浣濯の時、須らく衆末香花を水に和して用ゐるべし。灑乾の後、畳み收めて高処に安置し、香花を以て之に供養すべし。三拝し然して後、踞跪頂戴し、合掌致信して、此の偈を唱ふべし)。

大哉解脱服、無相福田衣、
披奉如来教、広度諸衆生。三唱。
而後立地、如披奉(而して後立地し、披奉すべし)。

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