曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

道得(どうて)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

諸仏諸祖は道得なり。このゆゑに、仏祖の仏祖を選するには、かならず道得也未と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。挂杖払子にても問取す、露柱燈籠にても問取するなり。仏祖にあらざれば問取なし、道得なし、そのところなきがゆゑに。

その道得は、他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、ただまさに仏祖の究弁あれば、仏祖の道得あるなり。かの道得のなかに、むかしも修行し証究す、いまも功夫し弁道す。仏祖の仏祖を功夫して、仏祖の道得を弁肯するとき、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、尽力道得するなり。

[裡書云、三十年、二十年は、みな道得のなれる年月なり。この年月、ちからをあはせて道得せしむるなり。]

このときは、その何十年の間も、道得の間隙なかりけるなり。しかあればすなはち、証究のときの見得、それまことなるべし。かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり。ゆゑに、いまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得、いまの道得をそなへたり。このゆゑにいま道得あり、いま見得あり。いまの道得とかのときの見得と、一条なり、万里なり。いまの功夫すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり。

この功夫の把定の、月ふかく年おほくかさなりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり。脱落せんとするとき、皮肉骨髓おなじく脱落を弁肯す、国土山河ともに脱落を弁肯するなり。このとき、脱落を究竟の宝所として、いたらんと擬しゆくところに、この擬到はすなはち現出にてあるゆゑに、正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり。心のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり。すでに道得せらるるに、めづらしくあやしくおぼえざるなり。

しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と証究せざるは、なほ仏祖の面目にあらず、仏祖の骨髓にあらず。しかあれば、三拝依位而立の道得底、いかにしてか皮肉骨髓のやからの道得底とひとしからん。皮肉骨髓のやからの道得底、さらに三拝依位而立の道得に接するにあらず、そなはれるにあらず。いまわれと他と、異類中行と相見するは、いまかれと他と、異類中行と相見するなり。われに道得底あり、不道得底あり。かれに道得底あり、不道得底あり。道底に自他あり、不道底に自他あり。

趙州真際大師示衆云、儞若一生不離叢林、兀坐不道十年五載、無人喚作儞唖漢、已後諸仏也不及儞哉(趙州真際大師、示衆に云く、儞若し一生叢林離なれば、兀坐不道ならんこと十年五載すとも、ひとの儞を唖漢と喚作すること無からん、已後には諸仏も也た儞に及ばじ)。

しかあれば、十年五載の在叢林、しばしば霜華を経歴するに、一生不離叢林の功夫弁道をおもふに、坐断せし兀坐は、いくばくの道得なり。不離叢林の経行坐臥、そこばくの無人喚作儞唖漢なるべし。一生は所従来をしらずといへども、不離叢林ならしむれば不離叢林なり。一生と叢林の、いかなる通霄路かある。ただ兀坐を弁肯すべし。不道をいとふことなかれ。不道は道得の頭正尾正なり。

兀坐は一生、二生なり。一時、二時にあらず。兀坐して不道なる十年五載あれば、諸仏もなんぢをないがしろにせんことあるべからず。まことにこの兀坐不道は、仏眼也覷不見なり、仏力也牽不及なり。諸仏也不奈儞何なるがゆゑに。

趙州のいふところは、兀坐不道の道取は、諸仏もこれを唖漢といふにおよばず、不唖漢といふにおよばず。しかあれば、一生不離叢林は、一生不離道得なり。兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり。一生不離不道得なり、道不得十年五載なり。坐断百千仏なり、百千諸仏坐断儞なり。

しかあればすなはち、仏祖の道得底は、一生不離叢林なり。たとひ唖漢なりとも、道得底あるべし、唖漢は道得なかるべしと学することなかれ。道得あるもの、かならずしも唖漢にあらざるにあらず。唖漢また道得あるなり。唖声きこゆべし、唖語きくべし。唖にあらずは、いかでか唖と相見せん、いかでか唖と相談せん。すでにこれ唖漢なり、作麼生相見、作麼生相談。かくのごとく参学して、唖漢を弁究すべし。

雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、やまのほとりにゆきて、草をむすびて庵を卓す。としつもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裡の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり。みづから一柄の木杓をつくりて、溪のほとりにゆきて水をくみてのむ。まことにこれ飲溪のたぐひなるべし。

かくて日往月来するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて、あるとき僧きたりて庵主にとふ、いかにあらんかこれ祖師西来意。
庵主云、谿深杓柄長(谿深くして杓柄長し)。

とふ僧おくことあらず、礼拝せず、請益せず。やまにのぼりて雪峰に挙似す。
雪峰ちなみに挙をききていはく、也甚奇怪、雖然如是、老僧自去勘過始得(也甚奇怪、然も是の如くなりと雖も、老僧自ら去いて勘過して始得なるべし)。

雪峰のいふこころは、よさはすなはちあやしきまでによし、しかあれども、老僧みづからゆきてかんがへみるべしとなり。かくてあるに、ある日、雪峰たちまちに侍者に剃刀をもたせて卒しゆく。直に庵にいたりぬ。わづかに庵主をみるに、すなはちとふ、道得ならばなんぢが頭をそらじ。

この間、こころうべし。道得不剃汝頭とは、不剃頭は道得なりときこゆ。いかん。この道得もし道得ならんには、畢竟じて不剃ならん。この道得、きくちからありてきくべし。きくべきちからあるもののために開演すべし。

ときに庵主、かしらをあらひて雪峰のまへにきたれり。これも道得にてきたれるか、不道得にてきたれるか。雪峰すなはち庵主のかみをそる。

この一段の因縁、まことに優曇の一現のごとし。あひがたきのみにあらず、ききがたかるべし。七聖十聖の境界にあらず、三賢七賢の見にあらず。経師論師のやから、神通変化のやから、いかにもはかるべからざるなり。仏出世にあふといふは、かくのごとくの因縁をきくをいふなり。

しばらく雪峰のいふ道得不剃汝頭、いかにあるべきぞ。未道得の人これをききて、ちからあらんは驚疑すべし、ちからあらざらんは茫然ならん。仏と問著せず、道といはず、三昧と問著せず、陀羅尼といはず、かくのごとく問著する、問に相似なりといへども、道に相似なり。審細に参学すべきなり。

しかあるに、庵主まことあるによりて、道得に助発せらるるに茫然ならざるなり。家風かくれず、洗頭してきたる。これ仏自智恵、不得其辺(仏自らの智慧、其の辺を得ず)の法度なり。現身なるべし、説法なるべし、度生なるべし、洗頭来なるべし。ときに雪峰もしその人にあらずは、剃刀を放下して呵呵大咲せん。しかあれども、雪峰そのちからあり、その人なるによりて、すなはち庵主のかみをそる。まことにこれ雪峰と庵主と、唯仏与仏にあらずよりは、かくのごとくならじ。

一仏二仏にあらずよりは、かくのごとくならじ。龍と龍とにあらずよりは、かくのごとくならじ。驪珠は驪龍のをしむこころ懈倦なしといへども、おのづから解收の人の手にいるなり。

しるべし、雪峰は庵主を勘過す、庵主は雪峰をみる。道得不道得、かみをそられ、かみをそる。しかあればすなはち、道得の良友は、期せざるにとぶらふみちあり。道不得のとも、またざれども知己のところありき。知己の参学あれば、道得の現成あるなり。

正法眼蔵道得第三十三

仁治三年壬寅十月五日書于観音導利興聖宝林寺 沙門
同三年壬寅十一月二日書写之 懐弉

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