曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

「正法眼蔵」一顆明珠(いっかみょうじゅ)

投稿日:2020年9月24日 更新日:

娑婆世界大宋国、福州玄沙山院宗一大師、法諱師備、俗姓者謝なり。在家のそのかみ釣魚を愛し、舟を南台江にうかべて、もろもろのつり人にならひけり。不釣自上の金鱗を不待にもありけん。唐の咸通のはじめ、たちまちに出塵をねがふ。舟をすてて山にいる。そのとし三十歳になりけり。浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。つひに雪峰山にのぼりて、真覚大師に参じて、昼夜に弁道す。

あるときあまねく方を参徹せんため、嚢をたづさへて出嶺するちなみに、脚指を石に築著して、流血し、痛楚するに、忽然として猛省していはく、是身非有、痛自何来(是の身有に非ず、痛み何れよりか来れる)。

すなはち雪峰にかへる。

雪峰とふ、那箇是備頭陀(那箇か是れ備頭陀)。

玄沙いはく、終不敢誑於人(終に敢へて人を誑かさず)。

このことばを雪峰ことに愛していはく、たれかこのことばをもたざらん、たれかこのことばを道得せん。

雪峰さらにとふ、備頭陀なんぞ徧参せざる。

師いはく、達磨不来東土、二祖不往西天(達磨東土に来らず、二祖西天に往かず)といふに、雪峰ことにほめき。

ひごろはつりする人にてあれば、もろもろの経書、ゆめにもかつていまだ見ざりけれども、こころざしのあさからぬをさきとすれば、かたへにこゆる志気あらはれけり。雪峰も、衆のなかにすぐれたりとおもひて、門下の角立なりとほめき。ころもはぬのをもちゐ、ひとつをかへざりければ、ももつづりにつづれけり。はだへには紙衣をもちゐけり、艾草をもきけり。雪峰に参ずるほかは、自余の知識をとぶらはざりけり。しかあれども、まさに師の法を嗣するちから、弁取せりき。

つひにみちをえてのち、人にしめすにいはく、尽十方世界、是一顆明珠。

ときに僧問、承和尚有言、尽十方世界是一顆明珠。学人如何会得(承るに和尚言へること有り、尽十方世界は是れ一顆の明珠と。学人如何が会得せん)。

師曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼)。

師、来日却問其僧(来日却つて其の僧に問ふ)、尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会(尽十方世界は是れ一顆の明珠、汝作麼生か会せる)。

僧曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼)。

師曰く、知、汝向黒山鬼窟裏作活計(知りぬ、汝黒山鬼窟裏に向つて、活計を作すことを)。

いま道取する尽十方世界是一顆明珠、はじめて玄沙にあり。その宗旨は、尽十方世界は、広大にあらず微小にあらず、方円にあらず、中正にあらず、活鱍々にあらず露回々にあらず。さらに、生死去来にあらざるゆゑに生死去来なり。恁麼のゆゑに、昔日曽此去(昔日は曽て此より去り)にして、而今従此来(而今は此より来る)なり。究弁するに、たれか片々なりと見徹するあらん、たれか兀々なりと挙するあらん。

尽十方といふは、逐物為己、逐己為物(物を逐ひて己と為し、己を逐ひて物と為す)の未休なり。情生智隔(情生ずれば智隔たる)を隔と道取する、これ回頭換面なり、展事投機なり。逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。機先の道理なるゆゑに機要の管得にあまれることあり。

是一顆珠は、いまだ名にあらざれども道得なり、これを名に認じきたることあり。一顆珠は、直須万年なり。亙古未了なるに、亙今到来なり。身今あり、心今ありといへども明珠なり。彼此の草木にあらず、乾坤の山河にあらず、明珠なり。

学人如何会得。この道取は、たとひ僧の弄業識に相似せりとも、大用現、是大軌則なり。すすみて一尺水、一尺波を突兀ならしむべし。いはゆる一丈珠、一丈明なり。

いはゆるの道得を道取するに、玄沙の道は尽十方世界是一顆明珠、用会作麼なり。この道取は、仏は仏に嗣し、はに嗣し、玄沙は玄沙に嗣する道得なり。嗣せざらんと回避せんに、回避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然回避するも、道取生あるは現前の蓋時節なり。

玄沙来日問其、尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会。

これは道取す、昨日説定法なる、今日二枚をかりて出気す。今日不定法なり、推倒昨日点頭笑なり。

曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼。

いふべし騎賊馬逐賊(賊馬に騎て賊を逐ふ)なり。

古仏為汝説するには異類中行なり。しばらく回光返照すべし、幾箇枚の用会作麼かある。試道するには、乳餅七枚、菜餅五枚なりといへども、湘之南、潭之北の教行なり。
玄沙曰、知、汝向黒山鬼窟裏作活計。

しるべし、日面月面は往古よりいまだ不換なり。日面は日面とともに共出す、月面は月面とともに共出するゆゑに、若六月道正是時、不可道我性熱(若し六月に正に是れ時と道ふも、我が姓は熱と道ふべからず)なり。

しかあればすなはち、この明珠の有始無始は無端なり。尽十方世界一顆明珠なり、両顆三顆といはず。全身これ一隻の正法眼なり、全身これ真実体なり、全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全心なり。全身のとき、全身の礙なし。円陀陀地なり、転轆轆なり。明珠の功徳かくのごとく見成なるゆゑに、いまの見色聞声の観音弥勒あり、現身説法の古仏新仏あり。

正当恁麼時、あるいは虚空にかかり、衣裏にかかる、あるいは頷下にをさめ、髻中にをさむる、みな尽十方世界一顆明珠なり。ころものうらにかかるを様子とせり、おもてにかけんと道取することなかれ。髻中頷下にかかるを様子とせり、髻表頷表に弄せんと擬することなかれ。醉酒の時節にたまをあたふる親友あり、親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるる時節、かならず醉酒するなり。

即是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり。しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。明珠はかくのごとくきこゆる声色あり。即得恁麼なるには、われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり。たどりうたがひ、取舍する作無作も、ただしばらく小量の見なり、さらに小量に相似ならしむるのみなり。

愛せざらんや、明珠かくのごとくの彩光きはまりなきなり。彩々光々の片々条々は尽十方界の功徳なり。たれかこれを攙奪せん。行市に塼をなぐる人あらず、六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ。不昧本来の頭正尾正なる、明珠は面目なり、明珠は眼睛なり。

しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思は、明々の草料をむすびきたれども、玄沙の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしり、あきらめつれば、心これわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舍にわづらはん。たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありておこさせける行にも念にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。

正法眼蔵一顆明珠第七

爾時嘉禎四年四月十八日雍州宇治縣観音導利興聖宝林寺示衆
寛元元年癸卯閏七月二十三日書写越州吉田郡志比莊吉峰寺院主房侍者比丘懐弉

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