曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

深信因果(じんしんいんが)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

百丈山大智禅師懐海和尚、凡参次、有一老人、常隨衆聴法。衆人退老人亦退。忽一日不退(百丈山大智禅師懐海和尚、凡そ参次に一りの老人有つて、常に衆に隨つて聴法す。衆人退すれば老人もまた退す。忽ちに一日退せず)。

師遂問、面前立者、復是何人(師、遂に問ふ、面前に立せるは、復た是れ何人ぞ)。

老人對曰、某甲是非人也。於過去迦葉仏時、曾住此山。因学人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答曰、不落因果。後五百生、墮野狐身。今請和尚代一転語、貴脱野狐身(老人對して曰く、某甲は是れ非人なり。過去迦葉仏の時に、曾て此の山に住せり。因みに学人問ふ、大修行底の人、還た因果に落つや無や。某甲答へて曰く、因果に落ちず。後五百生まで、野狐の身に墮す。今請すらくは和尚、一転語を代すべし。貴すらくは野狐の身を脱れんことを)。

遂問曰、大修行底人、還落因果也無(大修行底の人、還た因果に落つや無や)。
師曰、不昧因果(因果に昧からず)。

老人於言下大悟、作礼曰、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例(老人言下に大悟し、礼を作して云く、某甲已に野狐身を脱かれぬ、山後に住在せらん。敢告すらくは和尚、乞ふ亡僧の事例に依らんことを)。

師令維那白槌告衆曰、食後送亡僧(師、維那に令して白槌して衆に告して曰く、食後に亡僧を送るべし)。
大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是(大衆言議すらく、一衆皆安なり、涅槃堂にまた病人無し、何が故ぞ是の如くなる)。

食後只見、師領衆、至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬(食後に只見る、師、衆を領して、山後の岩下に至り、杖を以て一つの死野狐を指出するを。乃ち法に依つて火葬せり)。

師至晩上堂、挙前因縁(師、至晩に上堂して、前の因縁を挙す)。
黄檗便問、古人錯祗對一転語、墮五百生野狐身。転々不錯、合作箇什麼(黄檗便ち問ふ、古人錯つて一転語を祗對し、五百生野狐身に墮す。転々錯らざらん、箇の什麼にか作る合き)。

師曰、近前来、与儞道(近前来、儞が与に道はん)。
檗遂近前、与師一掌(檗、遂に近前して、師に一掌を与ふ)。

師拍手笑云、将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在(師、拍手して笑つて云く、将に胡の鬚の赤きかと謂へば、更に赤き鬚の胡在ること有り)。

この一段の因縁、天聖広燈録にあり。しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの悪趣を脱す。

あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代参禅学道と称ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。

第十九祖鳩摩羅多尊者曰、且善悪之報、有三時焉。凡人但見仁夭暴寿、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相隨、毫釐靡忄弋。縱経百千万劫、亦不磨滅(第十九祖鳩摩羅多尊者曰く、且く善悪の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に暴は寿く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福虚しと謂へり。殊に知らず、影響相隨ひて毫釐も忄弋ふこと靡きを。縱ひ百千万劫を経とも、亦た磨滅せず)。

あきらかにしりぬ、曩祖いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨をあきらめざるは稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにしてみだりに人天の善知識と自称するは、人天の大賊なり、学者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後学晩進のために語ることなかれ。これは邪説なり、さらに仏祖の法にあらず。汝等が疎学によりて、この邪見に墮せり。

今神旦国の衲僧等、ままにいはく、われらが人身をうけて仏法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報の墜墮にあらじ。金鎖玄關留不往、行於異類且輪回(金鎖玄關留むれども往せず、異類に行じて且く輪回す)なるべし。

大善知識とあるともがらの見解かくのごとし。この見解は、仏祖の屋裡におきがたきなり。あるいは人、あるいは狼、あるいは余趣のなかに、生得にしばらく宿通をえたるともがらあり。しかあれども、明了の種子にあらず、悪業の所感なり。この道理、世尊ひろく人天のために演説しまします。

これをしらざるは疎学のいたりなり。あはれむべし、たとひ一千生、一万生をしるとも、かならずしも仏法なるべからず。外道すでに八万劫をしる、いまだ仏法とせず。わづかに五百生をしらん、いくばくの能にあらず。

近代宋朝の参禅のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、如来の正法の流通するところ、祖々正伝せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。参学のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれば、修因感果のむね、あきらかなり。仏々祖々の道なるべし。おほよそ仏法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演説することなかれ。

龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三宝、四諦、四沙門果(龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三宝、四諦、四沙門果無けん)。

あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに帰せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解脱する、すなはち外道なり。

あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に帰す、仏法を修習せざれども、自然に覚海に帰すれば、さらに生死の輪転なし。このゆゑに後世なしといふ。これ断見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに仏弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。

おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、真の知識に参学せざるによりてなり。真知識に久参するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。

永嘉真覚大師玄覚和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習学せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃経を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すすみて曹谿に詣し、証をもて六祖に告す。六祖つひに印可す。のちに証道歌をつくるにいはく、

豁達空、撥因果(空に豁達し、因果を撥へば)、
漭々蕩々招殃禍(漭々蕩々として殃禍を招く)。

あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、仏法のために仏法を習学せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。

宏智古仏、かみの因縁を頌古するにいはく、
一尺水、一丈波(一尺の水、一丈の波)、
五百生前不奈何(五百生前奈何ともせず)。
不落不昧商量也(不落不昧商量するや)、
依前撞入葛藤窠(依前として葛藤窠に撞入す)。
阿呵呵。会也麼(阿呵呵。会也麼)。
若是儞洒々落々(若し是れ儞洒々落々たらば)、
不妨我哆々和々(妨げず我が哆々和々なるを)。
神歌社舞自成曲(神歌社舞自ら曲を成し)、
拍手其間唱哩囉(其の間に拍手して哩囉を唱ふ)。

いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠の句、すなはち不落と不昧と、おなじかるべしといふなり。

おほよそこの因縁、その理、いまだつくさず。そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および余趣に生ずといはず。人の疑ふところなり。

脱野狐身のすなはち、善趣にうまるべくは天上人間にうまるべし、悪趣にうまるべくは四悪趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生処なかるべからず。もし衆生死して性海に帰し、大我に帰すといふは、ともにこれ外道の見なり。

夾山圜悟禅師克勤和尚、頌古に云く、
魚行水濁、鳥飛毛落(魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ)、
至鑑難逃、太虚寥廓(至鑑逃れ難く、太虚寥廓たり)。
一往迢迢五百生(一往迢迢たり五百生)、
只縁因果大修行(只因果に縁つて大修行す)。
疾雷破山風震海(疾雷、山を破り、風、海を震はす)、
百錬精金色不改(百錬の精金、色改まらず)。
この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり。

杭州徑山大慧禅師宗杲和尚、頌に云、
不落不昧、石頭土塊(不落不昧、石頭土塊)、
陌路相逢、銀山粉碎(陌路に相逢ふて、銀山粉碎す)。
拍手呵々笑一場(拍手呵々笑ひ一場)。
明州有箇憨布袋(明州に箇の憨布袋有り)。

これらをいまの宋朝のともがら、作家の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ仏法の施權のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり。

おほよそこの因縁に、頌古、拈古のともがら三十余人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。仏法参学には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見おこして、断善根とならんことを。

おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず、おほよそ衆生の見仏聞法あるべからざるなり。

因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ仏々祖々、あきらめつたへましますところなり。澆季の学者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、漭々蕩々として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに余悪いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。

しかあればすなはち、参学のともがら、菩提心をさきとして、仏祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。

正法眼蔵深信因果第七

彼御本奥書に云、建長七年乙卯夏安居日以御草案書寫之
未及中書、清書、定有可再治事也、雖然書寫之 懐弉

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