曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

空華(くうげ)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

高祖道、一花開五葉、結果自然成。

この華開の時節、および光明色相を参学すべし。一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり。一華の道理の通ずるところ、吾本来此土、伝法救迷情なり。光色の尋処は、この参学なるべきなり。結果任儞結果なり、自然成をいふ。自然成といふは、修因感果なり。公界の因あり、公界の果あり。この公界の因果を修し、公界の因果を感ずるなり。

自は己なり、己は必定これ儞なり、四大五蘊をいふ。使得無位真人のゆゑに、われにあらず、たれにあらず。このゆゑに不必なるを自といふなり。然は聴許なり。自然成すなはち華開結果の時節なり、伝法救迷の時節なり。たとへば、優鉢羅華の開敷の時処は、火裏火時なるがごとし。鑽火焔火みな優鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり。もし優鉢羅華の時処にあらざれば、一星火の出生するなし、一星火の活計なきなり。

しるべし、一星火に百千朶の優鉢羅花ありて、空に開敷し、地に開敷するなり。過去に開敷し、現在に開敷するなり。火の現時現処を見聞するは、優鉢羅花を見聞するなり。優鉢羅華の時処をすごさず見聞すべきなり。

古先いはく、優鉢羅華火裏開。

しかあれば、優鉢羅華はかならず火裏に開敷するなり。火裏をしらんとおもはば、優鉢羅華開敷のところなり。人見天見を執して、火裏をならはざるべからず。疑著せんことは、水中に蓮花の生ぜるも疑著しつべし。枝条に諸華あるをも疑著しつべし。又疑著すべくは、器世間の安立も疑著しつべし。しかあれども疑著せず。仏祖にあらざれば花開世界起をしらず。華開といふは、前三々後三々なり。この員数を具足せんために、森羅をあつめていよよかにせるなり。

この道理を到来せしめて、春秋をはかりしるべし。ただ春秋に華果あるにあらず、有時かならず花果あるなり。華果ともに時節を保任せり、時節ともに花果を保任せり。このゆゑに百草みな華果あり、諸樹みな華果あり。金銀銅鐵珊瑚頗梨樹等、みな華果あり。地水火風空樹みな花果あり。人樹に花あり、人花に花あり、枯木に花あり。かくのごとくあるなかに、世尊道、虚空華あり。

しかあるを、少聞少見のともがら、空華の彩光葉華いかなるとしらず、わづかに空華と聞取するのみなり。しるべし、仏道に空華の談あり、外道は空華の談をしらず、いはんや覚了せんや。ただし、諸仏諸祖、ひとり空華地華の開落をしり、世界華等の開落をしれり。空華地華世界花等の経典なりとしれり。これ学仏の規矩なり。仏祖の所乗は空華なるがゆゑに、仏世界および諸仏法、すなはちこれ空華なり。

しかあるに、如来道の翳眼所見は空華とあるを伝聞する凡愚おもはくは、翳眼といふは、衆生の顛倒のまなこをいふ。病眼すでに顛倒なるゆゑに、浄虚空に空花を見聞するなりと消息す。この理致を執するによりて、三界六道、有仏無仏、みなあらざるをありと妄見するとおもへり。この迷妄の眼翳もしやみなば、この空華みゆべからず。このゆゑに空本無華と道取すると活計するなり。

あはれむべし、かくのごとくのやから、如来道の空華の時節始終をしらず。諸仏道の翳眼空華の道理、いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり。諸仏如来、この空華を修行して衣座室をうるなり、得道得果するなり。拈華し瞬目する、みな翳眼空花の現成する公案なり。正法眼蔵涅槃妙心いまに祖々正伝して断絶せざるを翳眼空華といふなり。菩提涅槃、法身自性等は、空華の開五葉の両三葉なり。

釈迦牟尼仏言、亦如翳人、見空中華、翳病若除、華於空滅(また翳人の空中の華を見るが如し、翳病若し除こほれば、華空に滅す)。

この道著、あきらむる学者いまだあらず。空をしらざるがゆゑに空華をしらず、空華をしらざるがゆゑに翳人をしらず、翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり。翳人と相見して、空華をもしり、空華をもみるべし。空華をみてのちに、華於空滅をもみるべきなり。ひとたび空花やみなば、さらにあるべからずとおもふは、小乗の見解なり。空華みえざらんときは、なににてあるべきぞ。ただ空花は所捨となるべしとのみしりて、空花ののちの大事をしらず、空華の種熟脱をしらず。

いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、日月星辰のかかれるところを空ならんとおもへるによりて假令すらくは、空華といはんは、この清気のなかに、浮雲のごとくして、飛花の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空花といはんずるとおもへり。能造所造の四大、あはせて器世間の法、ならびに本覚本性等を空花といふとは、ことにしらざるなり。又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず、器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり。眼翳によりて空花ありとのみ覚了して、空花によりて眼翳あらしむる道理を覚了せざるなり。

しるべし、仏道の翳人といふは本覚人なり、妙覚人なり、諸仏人なり、三界人なり、仏向上人なり。おろかに翳を妄法なりとして、このほかに真法ありと学することなかれ。しかあらんは小量の見なり。翳花もし妄法ならんは、これを妄法と邪執する能作所作、みな妄法なるべし。ともに妄法ならんがごときは、道理の成立すべきなし。

成立する道理なくは、翳華の妄法なること、しかあるべからざるなり。悟の翳なるには、悟の衆法、ともに翳荘厳の法なり。迷の翳なるには、迷の衆法、ともに翳荘厳の法なり。しばらく道取すべし、翳眼平等なれば空花平等なり、翳眼無生なれば空華無生なり、諸法実相なれば翳花実相なり。過現来を論ずべからず、初中後にはかかはれず。生滅に罣礙せざるゆゑに、よく生滅をして生滅せしむるなり。空中に生じ、空中に滅す。翳中に生じ、翳中に滅す。華中に生じ、花中に滅す。乃至諸余の時処もまたまたかくのごとし。

空華を学せんこと、まさに衆品あるべし。翳眼の所見あり、明眼の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども、空すでに品品なり、華また重々なり。

まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は空本無華と道取するなり。本無花なりといへども、今有花なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。梅昨無華、梅春有華と道取せんがごとし。しかあれども、時節到来すればすなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし。この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。

梅柳の花はかならず梅柳にさく。花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。桃李の花いまだ梅柳にさくことなし。梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空花の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり。空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。空花の春と余花の春と、ひとしかるべきなり。空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。このゆゑに古今の春秋あるなり。空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。空本無華の説をききて、もとよりなかりつる空花のいまあると学するは、短慮少見なり。進歩して遠慮あるべし。

祖師いはく、華亦不曾生。この宗旨の現成、たとへば華亦不曾生、花亦不曾滅なり。花亦不曾花なり、空亦不曾空の道理なり。華時の前後を胡乱して、有無の戲論あるべからず。華はかならず諸色にそめたるがごとし、諸色かならずしも華にかぎらず。諸時また青黄赤白等のいろあるなり。春は花をひく、華は春をひくものなり。

張拙秀才は、石霜の俗弟子なり。悟道の頌をつくるにいはく、

光明寂照遍河沙(光明寂照、河沙に遍し)。

この光明、あらたに僧堂仏殿廚庫山門を現成せり。遍河沙は光明現成なり、現成光明なり。

凡聖含霊共我家(凡聖含霊、共に我が家)。

凡夫賢聖なきにあらず、これによりて凡夫賢聖を謗ずることなかれ。

一念不生全体現(一念不生にして全体現ず)。

念々一々なり。これはかならず不生なり、これ全体全現なり。このゆゑに一念不生と道取す。

六根纔動被雲遮(六根纔かに動ずれば雲に遮へらる)。

六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、前後三々なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり。たとへば、雲をなし水をなすなり。

断除煩悩重増病(煩悩を断除すれば重ねて病を増す)。

従来やまふなきにあらず、仏病祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり。

趣向真如亦是邪(真如に趣向するも亦た是れ邪なり)。

真如を背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。

隨順世縁無罣礙(世縁に隨順して罣礙無し)。

世縁と世縁と隨順し、隨順と隨順と世縁なり。これを無罣礙といふ。罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり。

涅槃生死是空華(涅槃と生死と是れ空華)。

涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖の弟子の所住これなり。生死は真実人体なり。この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎枝葉、花果光色、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測の諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。

大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初参帰宗寺至真禅師問、如何是仏(大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、如何ならんか是れ仏)。

帰宗云、我向汝道、汝還信否(我れ汝に向つて道はんに、汝また信ずるや否や)。
師云、和尚誠言、何敢不信(和尚の誠言、何ぞ敢て信ぜざらん)。
帰宗云、即汝便是(即ち汝便ち是なり)。
師云、如何保任(如何が保任せん)。
帰宗云、一翳在眼、空花乱墜(一翳眼に在れば、空花乱墜す)。

いま帰宗道の一翳在眼空花乱墜は、保任仏祖の道取なり。しかあればしるべし、翳花の乱墜は諸仏の現成なり、眼空の花果は諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ、眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり。おほよそ一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり。眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。このゆゑに、

瑯㻓山広照大師いはく、奇哉十方諸仏、元是眼中花。欲識眼中花、元是十方諸仏。欲識十方諸仏、不是眼中華。欲識眼中花、不是十方諸仏。於此明得、過在十方諸仏、若未明得、声聞作舞、独覚臨粧(奇なる哉十方諸仏、元より是れ眼中の花なり。眼中の花を識らんと欲はば、元是れ十方諸仏なり。十方諸仏を識らんと欲はば、是れ眼中華にあらず。眼中花を識らんと欲はば、是れ十方諸仏にあらず。此に於て明得すれば、過十方諸仏に在り。若し未だ明得せずは、声聞作舞し、独覚臨粧す)。

しるべし、十方諸仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中花なり。十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。眼中花は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方諸仏なり。いまひとへに十方諸仏と欲識すれば眼中花にあらず、ひとへに眼中花と欲識すれば十方諸仏にあらざるがごとし。かくのごとくなるゆゑに、明得未明得、ともに眼中花なり、十方仏なり。欲識および不是、すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。

仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、それ恁麼の逞風流なり。空華の名字は経師論師もなほ聞及すとも、地華の命脈は、仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり。

地花の命脈を知及せる仏祖の道取あり。

大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、如何是山中宝(如何ならんか是れ山中の宝)。

この問取の宗旨は、たとへば、如何是仏(如何ならんか是れ仏)と問取するにおなじ、如何是道と問取するがごとくなり。

師いはく、空華従地発、蓋国買無門無(空華地より発け、蓋国買ふに門無し)。

この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず。いはんや従地としらんや。ただひとり石門のみしれり。従地といふは、初中後つひに従地なり。発は開なり。この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。

蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。従地発の空華あり、従花開の尽地あり。
しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。

正法眼蔵空華第十四

爾時寛元元年癸卯三月十日在観音導利興聖宝林寺示衆

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