曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

洗面(せんめん)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

法華経云、以油塗身、澡浴塵穢、著新浄衣、内外倶浄(油を以て身に塗り、塵穢を澡浴し、新浄の衣を著し、内外倶に浄らかなり)。

いはゆるこの法は、如来まさに法華会上にして、四安楽行の行人のためにときましますところなり。余会の説にひとしからず、余経におなじかるべからず。しかあれば、身心を澡浴して香油をぬり、塵穢をのぞくは第一の仏法なり。新浄の衣を著する、ひとつの浄法なり。塵穢を澡浴し、香油を身に塗するに、内外倶浄なるべし。内外倶浄とき、依報正報、清浄なり。

しかあるに、仏法をきかず、仏道を参せざる愚人いはく、澡浴はわづかにみのはだへをすすぐといへども、身内に五臟六腑あり。かれらを一々に澡浴せざらんは、清浄なるべからず。しかあれば、あながちに身表を澡浴すべからず。かくのごとくいふともがらは、仏法いまだしらず、きかず、いまだ正師にあはず、仏祖の児孫にあはざるなり。

しばらくかくのごとくの邪見のともがらのことばをなげすてて、仏祖の正法を参学すべし。いはゆる諸法の辺際いまだ決断せず、諸大の内外また不可得なり。かるがゆゑに、身心の内外また不可得なり。

しかあれども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとするとき、まづ袈裟を洗浣し、つぎに身心を澡浴す。これ三世十方の諸仏の威儀なり。最後身の菩薩と余類と、諸事みなおなじからず。

その功徳智慧、身心莊厳、みな最尊最上なり。澡浴洗浣の法もまたかくのごとくなるべし。いはんや諸人の身心、その辺際、ときにしたがうてことなることあり。いはゆる一坐のとき、三千界みな坐断せらるる。

このときかくのごとくなりといへども、自他の測量にあらず、仏法の功徳なり。その身心量また五尺六尺にあらず。五尺六尺はさだまれる五尺六尺にあらざるゆゑなり。所在も、此界他界、尽界無尽界等の有辺無辺にあらず。遮裏是什麼所在、説細説麁のゆゑに。心量また思量分別のよくしるべきにあらず、不思量不分別のよくきはむべきにあらず。身心量かくのごとくなるがゆゑに、澡浴量もかくのごとし。

この量を拈得して修証する、これ仏々祖々の護念するところなり。計我をさきとすべからず、計我を実とすべからず。しかあればすなはち、かくのごとく澡浴し、浣洗するに、身量心量を究尽して清浄ならしむるなり。たとひ四大なりとも、たとひ五蘊なりとも、たとひ不壊性なりとも、澡浴するみな清浄なることをうるなり。

これすなはちただ水をきたしすすぎてのち、そのあとは清浄なるとのみしるべきにあらず。水なにとして本浄ならん、本不浄ならん。本浄本不浄なりとも、来著のところをして浄不浄ならしむといはず。ただ仏祖の修証を保任するとき、用水洗浣、以水澡浴等の仏法つたはれり。これによりて修証するに、浄を超越し、不浄を透脱し、非浄非不浄を脱落するなり。

しかあればすなはち、いまだ染汚せざれども澡浴し、すでに大清浄なるにも澡浴する法は、ひとり仏祖道のみに保任せり、外道のしるところにあらず。もし愚人のいふがごとくならば、五臟六腑を細塵に抹して即空ならしめて、大海水をつくしてあらふとも、塵中なほあらはずは、いかでか清浄ならん。

空中をあらはずは、いかでか内外の清浄を成就せん。愚夫また空を澡浴する法、いまだしらざるべし。空を拈来して空を澡浴し、空を拈来して身心を澡浴す。澡浴を如法に信受するもの、仏祖の修証を保任すべし。

いはゆる仏々祖々、嫡々正伝する正法には、澡浴をもちゐるに、身心内外、五臟六腑、依正二報、法界虚空の内外中間、たちまちに清浄なり。香花をもちゐてきよむるとき、過去、現在、未来、因行業、たちまちに清浄なり。

仏言、三沐三蝉、身心清浄。
しかあれば、身をきよめ心をきよむる法は、かならず一沐しては一蝉し、かくのごとくあひつらなれて、三沐三蝉して、礼仏し転経し、坐禅し経行するなり。経行をはりてさらに端坐坐禅せんとするには、かならず洗足するといふ。足けがれ触せるにあらざれども、仏祖の法、それかくのごとし。

それ三沐三蝉すといふは、一沐とは一沐浴なり、通身みな沐浴す。しかうしてのち、つねのごとくして衣裳を著してのち、小爐に名香をたきにて、ふところのうちおよび袈裟坐処等に蝉ずるなり。しかうしてのちまた沐浴してまた蝉ず。かくのごとく三番するなり。これ如法の儀なり。このとき、六根六塵あらたにきたらざれども、清浄の功徳ありて現前す。うたがふべきにあらず。三毒四倒いまだのぞこほらざれども、清浄の功徳たちまちに現前するは仏法なり。たれか凡慮をもて測度せん、なにびとか凡眼をもて覷見せん。

たとへば、沈香をあらひきよむるとき、片々にをりてあらふべからず。塵々に抹してあらふべからず。ただ挙体をあらひて清浄をうるなり。仏法にかならず浣洗の法さだまれり。あるいは身をあらひ心をあらひ、足をあらひ面をあらひ、目をあらひくちをあらひ、大小二行をあらひ、手をあらひ、鉢盂をあらひ、袈裟をあらひ、頭をあらふ。これらみな三世の諸仏諸祖の正法なり。

仏法僧を供養したてまつらんとするには、もろもろの香をとりきたりては、まづみづからが両手をあらひ、嗽口洗面して、きよきころもを著し、きよき盤に浄水をうけて、この香をあらひきよめて、しかうしてのちに仏法僧の境界には供養したてまつるなり。ねがはくは摩黎山の栴檀香を、阿那婆達池の八功徳水にてあらひて、三宝に供養したてまつらんことを。

洗面は西天竺国よりつたはれて、東震旦国に流布せり。諸部の律にあきらかなりといふとも、なほ仏祖の伝持、これ正嫡なるべし。数百歳の仏々祖々おこなひきたれるのみにあらず、億千万劫の前後に流通せり。ただ垢膩をのぞくのみにあらず、仏祖の命脈なり。

いはく、もしおもてをあらはざれば、礼をうけ他を礼する、ともに罪あり。自礼々他、能礼所礼、性空寂なり、性脱落なり。かるがゆゑに、かならず洗面すべし。

洗面の時節、あるいは五更、あるいは昧旦、その時節なり。先師の天童に住せしときは、三更の三点を、その時節とせり。裙褊衫を著し、あるいは直を著して、手巾をたづさへて洗面架におもむく。

手巾は一幅の布、ながさ一丈二尺なり。そのいろ、しろかるべからず、しろきは制す。

三千威儀経に云、当用手巾有五事(当に手巾を用ゐるに五事有るべし)。
一者当拭上下頭(一つには当に上下の頭にて拭ふべし)。
二者当用一頭拭手、以一頭拭面(二つには当に一の頭を用ては手を拭ふべし、一の頭を以ては面を拭ふべし)。
三者不得持拭鼻(三つには持つて鼻を拭ふことを得ざれ)。
四者以用拭膩汚当即浣之(四つには以用つて膩を拭ひ、汚れば当に即ち之を浣ふべし)。
五者不得拭身体、若澡浴各当自有巾(五つには身体を拭ふことを得ざれ。澡浴の若きは、おのおの当に自ら巾有るべし)。

まさに手巾を持せんに、かくのごとく護持すべし。手巾をふたつにをりて、左のひぢにあたりて、そのうへにかく。手巾は半分はおもてをのごひ、半分にては手をのごふ。はなをのごふべからずとは、はなのうち、および鼻涕をのごはず。わきせなかはらへそももはぎを、手巾をしてのごふべからず。垢膩にけがれたらんに、洗浣すべし。ぬれしめれらんは、火に烘じ、日にほしてかわかすべし。手巾をもて沐浴のときもちゐるべからず。

雲堂の洗面処は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋図つたはれり。庵内および単寮は、便宜のところにかまふ。住持人は方丈にて洗面す。耆年老宿居処に、便宜に洗面架をおけり。住持人もし雲堂に宿するときは、後架にして洗面すべし。

洗面架にいたりて、手巾の中分をうなじにかく。ふたつのはしを左右のかたよりまへにひきこして、左右の手にて、左右のわきより手巾の左右のはしをうしろへいだして、うしろにておのおのひきちがへて、左のはしは右へきたし、右のはしは左にきたして、むねのまへにあたりてむすぶなり。

かくのごとくすれば、褊衫のくびは手巾におほはれ、両袖は手巾にゆひあげられて、ひぢよりかみにあがりぬるなり。ひぢよりしも、うでたなごころ、あらはなり。たとへば、たすきかけたらんがごとし。そののち、もし後架ならば、面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく。もし余処にては、打湯桶の湯を面桶にいる。

つぎに楊枝をつかふべし。今大宋国諸山には、嚼楊枝の法、ひさしくすたれてつたはれざれば、嚼楊枝のところなしといへども、今吉祥山永平寺、嚼楊枝のところあり。すなはち今案なり。これによれば、まづ嚼楊枝すべし。楊枝を右手にとりて、呪願すべし。

華厳経浄行品云、手執楊枝、当願衆生、心得正法、自然清浄(手に楊枝を執りては当に願ふべし、衆生、心に正法を得、自然に清浄ならんことを)。

この文を誦しをはりて、さらに楊枝をかまんとするに、すなはち誦すべし。
晨嚼楊枝、当願衆生、得調伏牙、噬諸煩悩(晨に楊枝を嚼まんには当に願ふべし、衆生、調伏の牙を得て、諸の煩悩を噬まんことを)。

この文を誦しをはりて、また嚼楊枝すべし。楊枝のながさ、あるいは四指、あるいは八指、あるいは十二指、あるいは十六指なり。

摩訶僧祇律第三十四云、歯木応量用。極長十六指、極短四指(歯木は量に応じて用ゐるべし。極長は十六指、極短は四指なり)。
しるべし、四指よりもみぢかくすべからず。十六指よりもながきは量に応ぜず。ふとさは手小指大なり。しかありといへども、それよりもほそき、さまたげなし。そのかたち、手小指形なり。一端はふとく、一端ほそし。ふときはしを、微細にかむなり。

三千威儀経云、嚼頭不得過三分(嚼頭は三分に過ぐることを得ざれ)。
よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすすぐべし。はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろへ、きよくあらふべし。嗽口たびたびすれば、すすぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。

三千威儀経云、刮舌有五事(刮舌に五事有り)、
一者不得過三返(一つには三返に過ぐることを得ざれ)。
二者舌上血出当止(二つには舌上血出でば当に止むべし)。
三者不得大振手、汚僧伽梨衣若足(三つには大きに手を振りて、祖伽梨衣若しくは足を汚すことを得ざれ)。
四者棄楊枝莫当人道(四つには楊枝を棄てんには、人の道に当ること莫れ)。
五者常当屏処(五つには常に屏処に当りてすべし)。

いはゆる刮舌三返といふは、水を口にふくみて舌をこそげこそげすること、三返するなり。三刮にはあらず。血いでばまさにやむべしといふにこころうべし。
よくよく刮舌すべしといふことは、
三千威儀経云、浄口者、嚼楊枝、漱口、刮舌。
しかあれば、楊枝は仏祖ならびに仏祖児孫の護持しきたれるところなり。

仏在王舍城竹園之中、与千二百五十比丘倶。臘月一日、波斯匿王是日設食。清晨躬手授仏楊枝。仏受嚼竟、擲殘著地便生、蓊鬱而起。根茎湧出、高五百由旬。枝葉雲布。周匝亦爾。漸復生花、大如車輪。遂復有菓、大如五斗瓶。根茎枝葉、純是七宝。若干種色、映て殊麗妙。隨色発光、掩蔽日月。食其菓、菓者美喩甘露。甘露香気四塞。聞者情絓。香風来吹、更相撑角、枝葉皆出和雅之音、暢演法要、聞者無厭。一切人民、覩茲樹変、敬信之心、倍益純厚。仏乃説法、応適其意、心皆開解。志求仏者、得果生天、数甚衆多

(仏王舍城の竹園の中に在して、千二百五十の比丘と倶なりき。臘月一日、波斯匿王是の日設食す。清晨に躬ら手づから仏に楊枝を授けたてまつる。仏受けて嚼み竟りて、殘りを擲げて地に著くるに便ち生じ、蓊鬱として起つ。根茎湧出して高さ五百由旬なり。枝葉雲布せり。周匝も亦爾なり。漸くまた生花、大きさ車輪の如し。遂にまた菓有り、大きさ五斗瓶の如くなり。根茎枝葉、純ら是れ七宝なり。若干種の色、映殊麗妙なり。色に隨つて光を発し、日月を掩蔽せり。その菓を食するに、菓美きこと甘露の喩し。甘露の香気四に塞てり。聞く者情絓す。香風来吹し、更に相撑角に、枝葉より皆和雅の音を出して、法要を暢演す、聞くもの無厭なり。一切人民、茲樹の変を覩るに、敬信の心、倍益純厚なり。仏乃ち説法したまふに、其の意に応適して、心皆な開解脱す。仏を志求するものあり、得果生天するものあり、数甚だ衆多なり)。

仏および衆僧を供養する法は、かならず晨旦に楊枝をたてまつるなり。そののち種々の供養をまうく。ほとけに楊枝をたてまつれることおほく、ほとけ楊枝をもちゐさせたまふことおほけれども、しばらくこの波斯匿王みづからてづから供養しまします因縁ならびにこの高樹の因縁、しるべきゆゑに挙するなり。

またこの日すなはち外道六師、ともにほとけに降伏せられたてまつりて、おどろきおそりてにげはしる。つひに六師ともに投河而死(河に投じて死す)。

六師徒類九億人、皆来師仏求為弟子。仏言善来比丘、鬚髪自落、法衣在身、皆成沙門。仏為説法、示其法要、漏尽結解、悉得羅漢(六師の徒類九億人、皆な来りて仏を師として弟子と為らんことを求む。仏善来比丘と言ふに、鬚髪自落し、法衣在身なり、皆な沙門と成る。仏為に説法し、其の法要を示すに、漏尽結解し、悉く羅漢を得たり)。

しかあればすなはち、如来すでに楊枝をもちゐましますゆゑに、人天これを供養したてまつるなり。あきらかにしりぬ、嚼楊枝これ諸仏菩薩、ならびに仏弟子のかならず所持なりといふことを。もしもちゐざらんは、その法失墜せり、かなしまざらんや。

梵網菩薩戒経云、若仏子、常応二時頭陀、冬夏坐禅、結夏安居。常用楊枝、澡豆、三衣、缾、鉢、坐具、錫杖、香爐、漉水嚢、手巾、刀子、火燧、鑷子、縄床、経律、仏像菩薩形像。而菩薩行頭陀時、及遊方時、行来百里千里、此十八種物、常隨其身。頭陀者、従正月十五日至三月十五日、従八月十五日、至十月十五日。是二時中、此十八種物、常隨其身、如鳥二翼

(梵網菩薩戒経に云く、若仏子、常に応に二時に頭陀し、冬夏に坐禅し、結夏安居すべし。常に楊枝と澡豆と、三衣と缾と鉢と、坐具と錫杖と、香爐と漉水嚢と、手巾と刀子と、火燧と鑷子と、縄床と経律と、仏像と菩薩の形像とを用ゐるべし。而して菩薩頭陀を行ずる時、及び遊方の時、百里千里を行来せんに、此の十八種物、常に其の身に隨ふべし。頭陀は正月十五日より三月十五日に至り、八月十五日より十月十五日に至る。是の二時の中、此の十八種物、常に其の身に隨へて、鳥の二翼の如くすべし)。

この十八種物、ひとつも虧闕すべからず。もし虧闕すれば、鳥の一翼おちたらんがごとし。一翼のこれりとも、飛行することあたはじ、鳥道の機縁にあらざらん。菩薩もまたかくのごとし。この十八種の羽翼そなはらざれば、行菩薩道あたはず。十八種のうち楊枝すでに第一に居せり、最初に具足すべきなり。この楊枝の用不をあきらめんともがら、すなはち仏法をあきらむる菩提薩埵なるべし。いまだかつてあきらめざらんは、仏法也未夢見在ならん。

しかあればすなはち、見楊枝は見仏祖なり。
或有人問意旨如何、幸値永平老漢嚼楊枝(或し人有つて意旨如何と問はん。幸ひに永平老漢の嚼楊枝に値ふ)。

この梵網菩薩戒は、過去現在未来の諸仏菩薩、かならず過現当に受持しきたれり。しかあれば、楊枝また過現当に受持しきたれり。

禅苑清規云、大乗梵網経、十重四十八軽、並須読誦通利、善知持犯開遮。但依金口聖言、莫擅隨於庸輩(大乗梵網経、十重四十八軽、並びに須らく読誦し通利し、善く持犯開遮を知るべし。但金口の聖言に依るべし、擅に庸輩に隨ふこと莫れ)。

まさにしるべし、仏々祖々正伝の宗旨、それかくのごとし。これに違せんは仏道にあらず、仏法にあらず、祖道にあらず。

しかあるに、大宋国いま楊枝たえてみえず。嘉定十六年癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野の貴賤おなじくしらず。僧家すべてしらざるゆゑに、もし楊枝の法を問著すれば失色して度を失す。あはれむべし、白法の失墜せることを。わづかにくちをすすぐともがらは、馬の尾を寸余にきりたるを、牛の角のおほきさ三分ばかりにて方につくりたるが、ながさ六七寸なる、そのはし二寸ばかりに、うまのたちがみのごとくにうゑて、これをもちて牙歯をあらふのみなり。僧家の器にもちゐがたし。不浄の器ならん、仏法の器にあらず。俗人の祠天するにも、なほきらひぬべし。かの器、また俗人僧家、ともにくつのちりをはらふ器にもちゐる、また梳鬢のときもちゐる。いささかの大小あれども、すなはちこれひとつなり。かの器をもちゐるも、万人が一人なり。

しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気はなはだくさし。二三尺をへだててものをいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。有道の尊宿と称じ、人天の導師と號するともがらも、漱口刮舌嚼楊枝の法、ありとだにもしらず。

これをもて推するに、仏祖の大道いま陵夷をみるらんこと、いくそばくといふことしらず。いまわれら露命を万里の蒼波にをしまず、異域の山川をわたりしのぎて道をとぶらふとすれども、澆雲かなしむべし、いくばくの白法か、さきだちて滅没しぬらん。をしむべしをしむべし。

しかあるに、日本一国朝野の道俗、ともに楊枝を見聞す、仏光明を見聞するならん。しかあれども、嚼楊枝それ如法ならず、刮舌の法つたはれず、倉卒なるべし。しかあれども、宋人の楊枝をしらざるにたくらぶれば、楊枝をもちゐるべしとしれるは、おのづから上人の法をしれり。仙人の法にも楊枝をもちゐる。しるべし、みな出塵の器なり、清浄の調度なりといふことを。

三千威儀経云、用楊枝有五事(楊枝を用ゐるに五事有り)、
一者断当如度(一つには断つこと当に度の如くなるべし)。
二者破当如法(二つには破すること当に如法なるべし)。
三嚼頭不得過三分(三つには嚼頭して三分を過ることを得ざれ)。
四者踈歯当中三齧(四つには歯を踈へんには、中に当りて三たび齧むべし)。
五者当汁澡目用(五つには汁をもて目を澡ふ用に当つべし)。

いま嚼楊枝漱口の水を、右手にうけてもて目をあらふこと、みなもと三千威儀経の説なり。いま日本国の往代の庭訓なり。

刮舌の法は、僧正栄西つたふ。楊枝つかひてのち、すてんとするとき、両手をもて楊枝のかみたるかたより二片に擘破す。その破口のとき、かほをよこさまに舌上にあててこそぐ。すなはち右手に水をうけて、くちにいれて漱口し刮舌す。漱口、刮舌、たびたびし、擘楊枝の角にてこそげこそげして、血出を度とせんとするがごとし。

漱口のとき、この文を密誦すべし。
華厳経云、澡漱口歯、当願衆生、向浄法門、究竟解脱(口歯を澡漱するには当に願ふべし、衆生浄法門に向ひて究竟して解脱せんことを)。

たびたび漱口して、くちびるのうちと、したのした、あぎにいたるまで、右手の第一指、第二指、第三指等をもて、指のはらにてよくよくなめりたるがごとくなること、あらひのぞくべし。油あるもの食せらんことちかからんには、皀莢をもちゐるべし。

楊枝つかひをはりて、すなはち屏処にすつべし。楊枝すててのち、三弾指すべし。後架にしては、棄楊枝をうくる斗あるべし、余処にては屏処にすつべし。漱口の水は、面桶のほかにはきすつべし。

つぎにまさしく洗面す。両手に面桶の湯を掬して、額より両眉毛、両目、鼻孔、耳中、顱頬、あまねくあらふ。まづよくよく湯をすくひかけて、しかうしてのち摩沐すべし。涕唾鼻涕を面桶の湯におとしいるることなかれ。かくのごとくあらふとき、湯を無度につひやして、面桶のほかにもらしおとしちらして、はやくうしなふことなかれ。あかおち、あぶらのぞこほりぬるまであらふなり。耳裏あらふべし、著水不得なるがゆゑに。眼裏あらふべし、著沙不得なるがゆゑに。あるいは頭髪頂までもあらふ、すなはち威儀なり。洗面をはりて、面桶の湯をすててのちも、三弾指すべし。

つぎに手巾のおもてをのごふはしにて、のごひかはかすべし。しかうしてのち、手巾もとのごとく脱しとりて、ふたへにして左臂にかく。雲堂の後架には、公界の拭面あり。いはゆる一疋布をまうけたり、烘櫃あり、衆家ともに拭面するに、たらざるわづらひなし。かれにても頭面のごふべし。また自己の手巾をもちゐるも、ともにこれ法なり。

洗面のあひだ、桶杓ならしておとをなすこと、かまびすしくすることなかれ。湯水を狼藉にして、近辺をぬらすことなかれ。ひそかに観想すべし、後五百歳にむまれて、辺地遠島に処すれども、宿善くちずして古仏の威儀を正伝し、染汚せず修証する、隨喜歓喜すべし。雲堂にかへらんに、軽歩低声なるべし。

耆年宿徳の草庵、かならず洗面架あるべし。洗面せざるは非法なり。洗面のとき、面薬をもちゐる法あり。

おほよそ嚼楊枝、洗面、これ古仏の正法なり。道心弁道のともがら、修証すべきなり。あるいは湯をえざるには水をもちゐる、舊例なり、古法なり。湯水すべてえざらんときは、早晨よくよく拭面して、香草抹香等をぬりてのち、礼仏誦経、焼香坐禅すべし。いまだ洗面せずは、もろもろのつとめ、ともに無礼なり。

正法眼蔵第五十

延応元年己亥十月二十三日在雍州観音導利興聖宝林寺示衆

天竺国、震旦国者、国王王子、大臣百官、在家出家、朝野男女、百姓万民、みな洗面す。家宅の調度にも面桶あり、あるいは銀、あるいは鑞なり。天祠神廟にも、毎朝に洗面を供ず。仏祖の搭頭にも洗面をたてまつる。在家出家、洗面ののち、衣裳をただしくして、天をも拝し、神をも拝し、祖宗をも拝し、父母をも拝す。師匠を拝し、三宝を拝し、三界万霊、十方真宰を拝す。いまは農夫田夫、漁樵翁までも洗面わするることなし、しかあれども嚼楊枝なし。日本国は、国王大臣、老少朝野、在家出家の貴賤、ともに嚼楊枝、漱口の法をわすれず、しかあれども洗面せず。一得一失なり。いま洗面、嚼楊枝、ともに護持せん、補虧闕の興輶なり、仏祖の照臨なり。

寛元元年癸卯十月二十日在越州吉田縣吉峰寺重示衆
建長二年庚戌正月十一日在越州吉田縣吉祥山永平寺示衆

※このページは学問的な正しさを追求するものではありません。より分かりやすくするために漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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