曹洞宗 正伝の仏法

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正伝の仏法

説心説性(せっしんせっしょう)「正法眼蔵」

投稿日:2020年9月24日 更新日:

神山僧密禅師、与洞山悟本大師行次、悟本大師、指傍院曰(洞山悟本大師と行次に、悟本大師、傍院を指して曰く)、裏面有人説心説性(裏面に人有りて説心説性す)。
僧密師伯曰、是誰(是れ誰そ)。
悟本大師曰、被師伯一問、直得去死十分(師伯に一問せられて、直に去死十分なることを得たり)。
僧密師伯曰、説心説性底誰(説心説性底は誰そ)。
悟本大師曰、死中得活(死中に活を得たり)。

説心説性は仏道の大本なり、これより仏々祖々を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、転妙法輪することなし、発心修行することなし。大地有情同時成道することなし、一切衆生無仏性することなし。拈花瞬目は説心説性なり、破顔微笑は説心説性なり、礼拝依位而立は説心説性なり、祖師入梁は説心説性なり、夜半伝衣は説心説性なり。拈挂杖これ説心説性なり、横払子これ説心説性なり。

おほよそ仏々祖々のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり。いはゆる心生種々法生の道理現成し、心滅種々法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。
しかあるに、心を通ぜず、性に達せざる庸流、くらくして説心説性をしらず、談玄談妙をしらず、仏祖の道にあるべからざるといふ、あるべからざるとをしふ。説心説性を説心説性としらざるによりて、説心説性を説心説性とおもふなり。これことに大道の神通塞を批判せざるによりてなり。

後来、径山大慧禅師宗杲といふありていはく、いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。但まさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり。

この道取、いまだ仏祖の縑緗をしらず、仏祖の列辟をきかざるなり。これによりて、心はひとへに慮知念覚なりとしりて、慮知念覚も心なることを学せざるによりて、かくのごとくいふ。性は澄湛寂静なるとのみ妄計して、仏性法性の有無をしらず、如是性をゆめにもいまだみざるによりて、しかのごとく仏法を僻見せるなり。

仏祖の道取する心は皮肉骨髓なり、仏祖の保任せる性は竹箆挂杖なり。仏祖の証契する玄は露柱燈籠なり、仏祖の挙拈する妙は知見解会なり。

仏祖の真実に仏祖なるは、はじめよりこの心性を聴取し、説取し、行取し、証取するなり。この玄妙を保任取し、参学取するなり。かくのごとくなるを学仏祖の児孫といふ。しかのごとくにあらざれば学道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。

得不の時節、ともに蹉過するなり。たとひなんぢがいふがごとく、心性ふたつながら忘ずといふは、心の説あらしむる分なり、百千万億分の少分なり。玄妙ともになげすてきたるといふ、談玄の談ならしむる分なり。この関捩子を学せず、おろかに忘ずといはば、手をはなれんずるとおもひ、身にのがれぬるとしれり。いまだ小乗の局量を解脱せざるなり、いかでか大乗の奥玄におよばん、いかにいはんや向上の関捩子をしらんや。仏祖の茶飯を喫しきたるといひがたし。

参師勤恪するは、ただ説心説性を身心の正当恁麼時に体究するなり、身先身後に参究するなり。さらに二三のことなることなし。

爾時初祖、謂二祖曰、汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道(爾の時に初祖、二祖に謂つて曰く、汝但だ外諸縁を息め、内心に喘ぐこと無く、心牆壁の如くにして以て道に入るべし)。

二祖種々説心説性、倶不証契。一日忽然省得。果白初祖曰、弟子此回始息諸縁(二祖種々に説心説性すれども、倶に証契せず。一日忽然として省得す。果に初祖に白して曰く、弟子此回始めて諸縁を息めたり)。

初祖知其已悟、更不窮詰、只曰、莫成断滅否(初祖其の已に悟りたりと知つて、更に窮詰せず、只曰く、断滅と成ること莫しや否や)。
二祖曰、無(無なり)。
初祖曰、子作麼生。
二祖曰、了了常知、故言之不可及(了了として常に知る、故に言も及ぶべからず)。
初祖曰、此乃従上諸仏諸祖、所伝心体、汝今既得、善自護持(此れ乃ち従上の諸仏諸祖、所伝の心体なり、汝今既に得たり、善く自ら護持すべし)。

この因縁、疑著するものあり、挙拈するあり。二祖の初祖に参侍せし因縁のなかの一因縁、かくのごとし。二祖しきりに説心説性するに、はじめは相契せず。やうやく積功累徳して、つひに初祖の道を得道しき。庸愚おもふらくは、二祖はじめに説心説性せしときは証契せず、そのとが、説心説性するにあり。のちには説心説性をすてて証契せりとおもへり。心如牆壁、可以入道の道を参徹せざるによりて、かくのごとくいふなり。これことに学道の區別にくらし。

ゆゑいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども、百行に一当なし。しかあれども、或従知識、或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当はむかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。

聞教修道得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏道をうることなし。仏道修行の始終に達せざるともがら、この神通塞の道理なることをあきらめがたし。

仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとへば、万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり。初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもふらく、学仏道の時は仏道にいたらず、果上の時のみ仏道なりと。

挙道説道をしらず、挙道行道をしらず、挙道証道をしらざるによりてかくのごとし。迷人のみ仏道修行して大悟すと学して、不迷の人も仏道修行して大悟すとしらずきかざるともがら、かくのごとくいふなり。証契よりさきの説心説性は、仏道なりといへども、説心説性して証契するなり。証契は迷者のはじめて大悟するをのみ証契といふと参学すべからず。迷者も大悟し、悟者も大悟し、不悟者も大悟し、不迷者も大悟し、証契者も証契するなり。

しかあれば、説心説性は仏道の正直なり。杲公この道理に達せず、説心説性すべからずといふ、仏道の道理にあらず。いまの大宋国には、杲公におよべるもなし。

高祖悟本大師、ひとり諸祖のなかの尊として、説心説性の説心説性なる道理に通達せり。いまだ通達せざる諸方の祖師、いまの因縁のごとくなる道取なし。

いはゆる僧密師伯と大師と行次に、傍院をさしていはく、裏面有人、説心説性。
この道取は、高祖出世よりこのかた、法孫かならず祖風を正伝せり、余門の夢にも見聞せるところにあらず。いはんや夢にも領覽の方をしらんや。ただ嫡嗣たるもの正伝せり。この道理もし正伝せざらんは、いかでか仏道に達本ならん。いはゆるいまの道理は、

或裏或面、有人々有、説心説性なり。面裏心説、面裏性なり。
これを参究功夫すべし。性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず。

仏性といふは一切の説なり。無仏性といふは一切の説なり。仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは学道にあらず、無仏性を参学せざらんは参学にあらず。説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。

心は疎動し、性は恬静なりと道取するは外道の見なり。性は澄湛にして、相は遷移すると道取するは外道の見なり。仏道の学心学性しかあらず。仏道の行心行性は外道にひとしからず。仏道の明心明性は外道その分あるべからず。

仏道には有人の説心説性あり、無人の説心説性あり。有人の不説心不説性あり、無人の不説心不説性あり。説心未説心、説性未説性あり。無人のときの説心を学せざれば、説心未到田地なり。有人のときの説心を学せざれば、説心未到田地なり。説心無人を学し、無人説心を学し、説心是人を学し、是人説心を学するなり。

臨済の道取する尽力はわづかに無位真人なりといへども、有位真人いまだ道取せず。のこれる参学、のこれる道取、いまだ現成せず、未到参徹地といふべし。説心説性は説仏説祖なるがゆゑに、耳処に相見し、眼処に相見すべし。

ちなみに僧密師伯いはく、是誰。
この道取を現成せしむるに、僧密師伯さきにもこの道取に乗ずべし、のちにもこの道取に乗ずべし。是誰は那裏の説心説性なり。しかあれば、是誰と道取せられんとき、是誰と思量取せられんときは、すなはち説心説性なり。この説心説性は、余方のともがら、かつてしらざるところなり。子をわすれて賊とするゆゑに、賊を認して子とするなり。

大師いはく、被師伯一問、直得去死十分。
この道をきく参学の庸流おほくおもふ、説心説性する有人の、是誰といはれて、直得去死十分なるべし。そのゆゑは、是誰のことば、対面不相識なり、全無所見なるがゆゑに死句なるべし。かならずしもしかにはあらず。

この説心説性は、徹者まれなりぬべし。十分の去死は一二分の去死にあらず、このゆゑに去死の十分なり。被問の正当恁麼時、たれかこれを遮天遮地にあらずとせん。照古也際断なるべし、照今也際断なるべし。照来也際断なるべし、照正当恁麼時也際断なるべし。

僧密師伯いはく、説心説性底誰。
さきの是誰といまの是誰と、その名は張三なりとも、その人は李四なり。

大師いはく、死中得活。
この死中は、直得去死を直指すとおもひ、説心説性底を直指して是誰とは、みだりに道取するにあらず。是誰は説心説性の有人を差排す、かならず十分の去死を万期せずといふと参学することありぬべし。大師道の死中得活は、有人説心説性の声色現前なり。またさらに十分の去死のなかの一両分なるべし。活はたとひ全活なりとも、死の変じて活と現ずるにあらず。得活の頭正尾正に脱落なるのみなり。

おほよそ仏道祖道には、かくのごとくの説心説性ありて参究せらるるなり。又且のときは十分の死を死して、得活の活計を現成するなり。

しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の仏道なることをあきらめず、教行証の説心説性にくらくて、胡説乱道する可憐憫者おほし。身先身後にすくふべし。為道すらくは、説心説性はこれ七仏祖師の要機なり。

正法眼蔵第四十二

爾時寛元元年癸卯在于日本国越州吉田縣吉峰寺示衆

※このページは学問的な正しさを追求するものではありません。より分かりやすくするために漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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