明治44年(1911年)11月5日に曹洞宗大本山總持寺が能登の總持寺祖院から神奈川県横浜市の鶴見に移転した時の中心人物の一人として總持寺監院を務めた黒田鉄巌師が挙げられる。大本山總持寺は能登にあって古くから人々の信仰を集めてきたが、明治31年(1898年)、不慮の火災により伽藍の大部分が焼失したのを契機として、時代の推移と宗門の発展を願い神奈川県横浜市鶴見に移転することになった。遷祖式当日の記録には次のようにある。
「午前2時に鶴見大本山の僧侶全200名が振鈴で起床、暁天坐禅、朝課読経、黒田鉄巌師の説教」
「永平寺貫主森田悟由師らと沿道に整列」
「御真龕を担ぎ手数十人によって移す馬車を鶴見駅前に用意する」
「鶴見駅前には(石川禅師一行の)ご先導役の奉迎係黒田鉄厳師が待つ、馬車、人足も待機している」
「午前7時30分に石川素童禅師らが国府津駅を特別臨時列車で出発し、午前10時10分頃に鶴見駅に到着する」
「鶴見駅にて奉迎係の黒田鉄厳師の先導された石川禅師一行が東海道を通り、雑踏の中を3つの大アーチをくぐり、正午前にやっと本堂の放光堂に安着する」
(「御移転の真実を語る資料‐遷祖式を中心として」より)
参考画像(鶴見駅から總持寺本堂に向かう石川禅師一行)