無一物

投稿日:2020年6月4日 更新日:

私は自分の幼少の頃をふり返って見る。三河の山寺で生まれた私は、五歳のとき父を失った。後住が来て、母は寺を去るように、私は寺の小僧になるようにとの事であったが、母としてはその申し出をきくわけに行かず、私を連れて寺を出ることとなり、三里程離れた縁故へ一度落ち着くこととなった。その時餞別をもらったと後から聞かされた。それは現金ではなく証文である。

金弐拾五円なり餞別としてやるが現金は今は渡さないから、大きくなって入用のときに取りに来るようにと云うことである。無一物で寺を出てから流離の幾年か経って、四日市でその頃景気のよかった紡績工場で母は働くこととなった。朝早く貸間の家を母と共に出る。学校へ行ってもまだ門の閉っている頃であった。その頃の哀歓交々の生活は外からはあまりよい生活ではなかったと思うものの、それはそれなりに自分を育ててくれたことと思われる。
(昭和五十四年一月)(余語翠巖好夢集「去来のまま」より)

余語翠巌 略歴

-余語翠巌



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