余語翠巌 よごすいがん
黒田鉄巌和尚に就いて得度。
黒田鉄觜和尚に就いて嗣法。第90祖。日本曹洞宗第40祖。
一番弟子は水野梅秀。
總持寺副貫主。最乗寺独住第18世。三重県長岡興寺首先住職の後、三重県河上山瑞光寺住職(23世)となる。長興寺18世。
1912年(大正元年)9月9日、愛知県南設楽郡鳳来町に生まれる。
1936年(昭和11年)3月 駒沢大学仏教学部を卒業後、4月より曹洞宗宗内研究生となる。
1939年(昭和14年)3月 總持寺本山僧堂に安居。
1961年(昭和36年)より、總持寺の講師。
1964年(昭和39年)1月より、總持寺の副寺。
1965年(昭和40年)7月より、總持寺の副監院。
1969年(昭和44年)6月 アスペンス文化学研究所の招請により米国各地で禅セミナー巡講を行う。10月より、曹洞宗師家、總持寺の後堂に。
1971年(昭和46年)11月 曹洞宗教学審議会委員。
1973年(昭和48年)4月 愛知学院大学講師。11月、曹洞宗経歴調査特別審査会委員。
1974年(昭和49年)3月 神奈川県大雄山最乗寺専門僧堂西堂。
1976年(昭和51年)2月 曹洞宗師家会副会長。
1977年(昭和52年)12月 總持寺常任顧問。
1977年(昭和52年) 最乗寺独住第十八世を継承。
1978年(昭和53年)3月 特別尼僧堂師家。
1980年(昭和55年)5月 曹洞宗師家会会長。
1982年(昭和57年)3月 曹洞宗参議を務める。
1996年(平成8年) 總持寺副貫主に就任。同年12月21日に84歳で逝去。
遺偈云「任運日月 随縁誑人 真如不味 行脚永新」。
宗外では保護司、民生委員、選挙管理委員長、人権擁護委員、教育委員長なども務めた。
『未来のまま(余語翠巌好夢集)』
『生を明らめ死を明らむるは』
『これ仏性なり』
『禅の十戒』
『道はじめより成ず』
『禅の古典―伝光録』
『正法眼蔵随聞記のはなし』
『正法眼蔵佛性講話』
『正法眼蔵弁道話講話』などの著書がある。
※このウェブサイト内では孫弟子の中島法雄から見て「大師匠」と記述されることが多いです。