★4点の聯は余語翠巖老師の書です。※リンク先に画像あり
雲収山骨露 雲収(おさ)まりて山(さん)骨(こつ)露(あら)われ
雨過四山低 雨過ぎて四山(しざん)低し
鶏向五更啼 鶏(とり)は五(ご)更(こう)向(に)啼き
三年逢一閏 三年、一閏(じゅん)に逢う
道元〔道元禅師語録・山僧叢林を歴(ふ)ること多からず〕
雲が収まり山の峰が見えてくる。
雨の中では、山々の低くみえているのである。
鶏は五更になると啼き
三年ごとに(旧暦)閏年がめぐってくる。
この世は、奇跡、啓示の世界でなく、あるがままの姿が神通妙用のあらわれであり珍重すべきものがある。
果報三祇道初成 果三祇(かさんぎ)に満ちて、道(みち)初めから成ず
放光動地度群生 放光動地(ほうこうどうち)、群生(ぐんじょう)を度(ど)す
一声鶏唱五更月 一声(いっせい)鶏(にわとり)は唱(との)う五(ご)更(こう)の月
枕上誰人夢未醒 枕上(ちんじょう)誰人(たれびと)か夢(ゆめ)未(いま)だ醒(さ)めざ る
大智〔大智禅師偈頌・仏成道〕
真実の道理は、人間の想いをはるかに越えむかしからきちんとととのった姿を見せている。そこに存在する一つ一つの姿はすべて完結された絶対の姿がある。
にわとりは早朝啼いて朝を告げる人々を起す為ではなくにわとりの本来の姿である。
こうした生き生きた世界に生かされたくづながら気付かない人は気づかないものだ。
仏教とは、真実真理に気付き真理の中に生きていくことである。一つ一つの存在(生命)は他と比べることのできない尊い絶対的存在であることに気付かねばならない。
(中略)懐かしい大雄山箱根別院で提唱の余語翠巖老師(元総持寺副貫主)(リンク先より)