正和元(1312)年、瑩山禅師は能登(石川県)に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記』を撰述しました。坐禅の心得を説いた指導書で、『普勧坐禅儀』とともに参禅する者にとって欠くことのできない教説です。
坐禅の意義から、参禅の時の呼吸や姿勢、眼の開き方、手の置き方など、さらには食事や衣服などの注意にもふれられ、細かく丁寧に示されています。その全文を掲載いたします。
『坐禅用心記』
夫れ坐禅は直に人をして心地を開明し、
本分に安住せしむ。
是を本来の面目を露すと名づけ、
亦本地の風光を現わすと名づく。
身心倶に脱落し、坐臥同じく遠離す。
故に不思善不思悪、能く凡聖を超越し、
生仏の辺際を離却す。
故に万事を休息す、及び諸縁を放下し、
一切為さず、六根作すこと無し。
這箇は是、阿誰ぞ、曽て名を知らず。
身と為すべきに非ず。
慮らんと欲すれば慮絶し、
言わんと欲すれば言窮まる。
痴の如く、兀の如く、
山高く、海深く、
頂を露さず、底を見ず、
縁に対せずして照らす。
眼雲外に明らかなり、
思量せずして通ず。
宗黙説に明らかなり。
乾坤を坐断して全身独露す。
没量の大人大死人の如く、
一翳の眼に遮ぎるなく、一塵の足に受くる無し。
何れの処には塵埃有らん。
何物か遮障を為さん。
清水本表裏無く、虚空終に内外無し。
玲瓏明白にして、自照霊然たり。
色空未だ分れず、境智何ぞ立せん。
従来共に住して、歴劫名無し。
三祖大師且く名づけて心となし、
龍樹尊者、仮に名づけて身と為す。
仏性の相を現じ、諸仏の体を表す。
此の円月の相は、欠くること無く、余ること無し。
即ち此心は便ち是れ仏なり。
自己の光明、古に騰り、今に輝き、
龍樹の変相を得、諸仏の三昧を成ず。
心本二相無く、身更に相像に異なり、
唯心と唯身と、異と同とを説かず。
心変じて身と成り、身露れて相分る。
一波纔に動いて、万波随い来り、
心識才かに起って、万法競い来る。
謂わゆる四大五蘊遂に和合し、
四支五根忽ち現成す。しかのみあらず、
三十六物十二因縁造作遷流し、展転相続す。
但、衆法を以て合成して有り、
所以に心は海水の如く、
身は波浪の如し。
海水の外一点の波無きが如く、
波浪の外一滴の水無きが如し。
水波別なく、動静異ならず。
故に云う、生死去来真実の人。
四大五蘊不壊の身と。
1、夫れ坐禅は直に人をして心地を開明し
2、今坐禅の者は
3、古人云く
4、若し坐禅の時
5、大仏事
6、夫れ坐禅は教行証に干かるに非ず
7、坐禅せんと欲せば
8、直に須らく煩悩を破断して
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