先日、尊敬する人をもつ(円覚寺/管長のページ/2024.06.22付)の本文中に大師匠の『従容録』が引用されていました。本文の主意については栄西禅師の事で、道元禅師と栄西禅師との関りがどのようであったかを引用して下さっています。
「人間が本来仏様だというのならば、なぜ、多くの祖師方は血のにじみ出るような修行をする必要があったのだろうか」
という問題です。
そのへんの消息を余語翠厳老師の『従容録』には、第六十九則のところに説かれています。引用させてもらいます。(以下、省略)
円覚寺は臨済宗の大本山ですが、曹洞宗の僧侶が書いたものでも、引用に適したものであればこのように採用してくれています。まあ、これは自然なことなのですが、部外者から見れば不自然なことに映るかもしれないと思い書き残しておこうと思います。
道元禅師の『正法眼蔵』には、曹洞宗の事柄に限らず、臨済宗の人物について多く記述されています。
ここまでは曹洞宗、そこまでは臨済宗というのは、人間の勝手な都合です。
曹洞宗だから尊敬する、臨済宗だから尊敬する、そういう見方もあるかもしれませんが、そういった限定したものではない世界にはさらなる可能性が広がっています。